横断歩道の上の、父上の幻影〜カクシンハン『ハムレット』

 シアターグリーンでカクシンハン『ハムレット』を見てきた。
 既に2014年にカクシンハンの『ハムレット』を一度別の演出で見て、それについて雑誌に劇評を書いているのだが、今回は全く違った演出だった。前回は親密感のあるSPACE雑遊のセットを生かした非常にシャープで熱い演出だったのだが、今回は前回の『マクベス』を引き継いだ、パイプ椅子をたくさん使ったかなり雑然とした空間作りと、それとは対照的なすっきりした台詞が特徴だ。

 舞台上には右手手前から左手後方へ横断歩道そっくりの模様が描かれており、とくに芝居がかった空想的な場面はこの直線上で演じられることが多い。このプロダクションは生と死のかかわりが重視されているので、この横断歩道はちょっとあの世とつながっているような不気味な雰囲気もある。途中からパイプ椅子が増え始めて、劇中劇の場面ではパイプ椅子がセットのように装飾的に使われる、居室の場ではこのパイプ椅子がまるでもう一つ芝居小屋があるような雰囲気でホールの座席部分ふうにきちんと並べられ、そこに乱心気味のクローディアスが突っ込んで列を崩した後、左後方にぐちゃぐちゃに片付けられる(これは東日本大震災の瓦礫を意識してるようだが、このテーマは大橋洋一先生ブログのほうが詳しい分析があるので、そのへんについてはそちらに譲りたい)。終盤ではオフィーリアのお墓になり、フェンシングの場面でもそのまま使われる。後方にスクリーンが設置されているのは前回の『ハムレット』と似ているが、スクリーンなどメディアの使い方は前回のほうがかなり凝っていたように思う。

 いくつか面白いポイントがあるのだが、前半では旅の一座がプライアム王(プリアモス)の死の一場をやるところが一番良かった。ここは普通、座長格の役者がひとりで朗々と台詞を語る演出が多いと思うのだが、この演出では多数の役者が台詞を朗唱する中、横断歩道の模様の上で実際にピラス(ピュロス)とプライアムの対決が演じられるという非常に具体的な演出になっていて、芝居が人間にどのような効果をもたらすかを強調している。この場面ではプライアムが父上の亡霊そっくりの姿で現れ、さらに普通よりはかなり若い王妃ヘキュバ(ヘカベ)がそれを嘆くという描写になっており、この場面を見ているハムレット(河内大和)は相当ショックを受けている。明らかにピラスによるプライアム王殺しがクローディアスによる先王殺しに重ねられているが、ハムレットの実母ガートルード(のぐち和美)は、夫への純粋な愛を保ち続けるヘキュバとは違ってすぐに再婚してしまった。この場面におけるプライアムの死に対するヘキュバの嘆きは、ハムレットの頭の中で理想化されたあるべき母の姿と重なっている。ハムレットの表情の戸惑いは、芝居によって自分の父が不当に殺されたことを思い出した怒りと、母がこのヘキュバのようではないことへの悲しみがいりまじったものに見える。この一場を見てハムレットは自分の身をもって芝居が人に及ぼす力の大きさを知り、芝居を使ってクローディアスの内心を探ろうとする。普通に演出するとただ流してしまいがちなこの場面をこんなに強調してうまく全体の中で機能させているのにはとても感心した。

 さらに最後のパイプ椅子フェンシングの場面は実にケッサクだった。パイプ椅子でハムレットとレアティーズが殴り合うというもので、ご丁寧に左後方のスクリーンにオリンピックみたいな"Pipe Chair Fencing"っていう得点板まで出てくる。こんなふざけたケンカみたいな見た目なのに、アクションはものすごく本格的で華麗な殺陣になっているし、ごちゃごちゃしがちなこの場面にしてはかなりわかりやすい。ブラックユーモアと迫力のバランスが大変良かった。

 この二箇所が白眉だったと思うのだが、他にも特徴的な演出はいくつかある。まず、序盤でハムレットに対して亡霊が「誓え」というところだが、これはハムレット以外の人にもこの亡霊の声が聞こえている演出のほうが多いと思うのだが、今回はハムレットにしか亡霊の声が聞こえていないようだった。このプロダクションのハムレットは全体的にとても純粋で、生者の世界になじめず死者に近いところにいるような感じだったと思う。また、『ねずみとり』の劇中劇のほうにも安倍とトランプと金正恩のマスクを使った政治諷刺があり、デンマークの腐敗した宮廷が日本に重ねられて茶化されていて面白かった。さらにオフィーリアの死の知らせが入るところは、普通はガートルードが詳しく死の状況を説明するのだが、この演出ではオフィーリア(真以美)が舞台に出てきて自分の死を語るようになっている。逆説的だが、この場面で死者オフィーリアが声を与えられることにより、やっと生者の世界になじめないハムレットとオフィーリアが近くなったように感じられた。