飲んだくれて踊ることもできない、不機嫌なヒロイン〜シス・カンパニー『ヘッダ・ガブラー』

 シアターコクーンシス・カンパニーヘッダ・ガブラー』を見てきた。言わずと知れたイプセンの有名作で、栗山民也演出、ヘッダ役は寺島しのぶである。
 左側に大きな窓があり、右側に隣室への出入り口があるセットが組まれている。客席中央にせり出した角があり、ここに役者が立つとちょっと張り出し舞台のような演出をすることができる。出入りには客席側も使われる。ただ、セットはちょっと古風なのだが、衣服は現代風で、あまり時代設定は明確ではないと思った。

 わりとストレートなイプセンで、非常にちゃんとした丁寧な演出だ。寺島しのぶが演じるヘッダは19世紀の女で、私が今までに見たヘッダの中ではとくに始終不機嫌なヘッダだったのだが、寺島の個性のせいでぶすっとしているのがかえって魅力になってしまうようなところがある。小日向文世演じるテスマンは学識ある中年男性なのにとにかく子供っぽく、冒頭からおばさまに甘えたり、スリッパにこだわったり、ちょっと嬉しいことがあると子犬みたいにはしゃぐ様子は面白おかしい一方、テンションの高さは見ていてきまりが悪いくらいだ。学問のほうではけっこう実力がありそうなのに、ヘッダをどんどん不機嫌にさせてることに気付いてなさそうなあたりがいたたまれない。段田安則演じるブラック判事はいかにも腹に一物ありそうなおじさまだ。

 全体的に、古典的にしっかり戯曲を見せることに重点を置いているので、新しさがないかわりに見ていて気付いたことがあった。とくに寺島しのぶのむくれっぱなしのヘッダを見ていて思ったのだが、この手の女性ならば今ならお酒に逃避してぐでんぐでんに酔っ払って自分が妊娠していることを否認したりしそうなのに、この芝居ではヘッダはどちらかというとアルコール依存症を克服したレェーヴボルクに酒を飲ませることにこだわる。これは、ヘッダはアルコール依存症になることすら許されていないからだということに気付いた。少し前に、女性に摂食障害が多いのはアルコール依存症や他のドラッグと違って社会的機能(働いたり、家庭を維持する役割)をある程度維持したままかかれる病気だからではないかという仮説の話を読んだのだが、アルコール依存症というのは男性がかかるとある種のロマンティックで破滅的な男らしさに結びつけられて容認されてしまうようなところがある一方、女性がかかると単に惨めなものとしか扱われないというところがある。とくにヘッダは19世紀末の教育ある女性で、しかも女として社会化されすぎているため、酒に溺れるという選択肢はおそらく頭の中にまず存在しない。さらに、たぶんこの頃のアルコール依存症は今みたいにはっきり病理化されていない。21世紀に生きてる我々には、アルコール依存症は楽しくないのに酒がやめられない、つまり苦痛の病に見えるが、19世紀に生きているヘッダにとっては社会が抑圧的すぎて、そこから降りられるアルコール依存症、あるいはレェーヴボルクの大酒飲みは快楽を求める活動に見える。ヘッダは楽しんだ末に社会から疎外される立場となったレェーヴボルクに対してある種の憧れと嫉妬があり、だから彼に酒を飲ませようとしている。あれはヘッダの英雄的に社会から外れてしまいたいという願望のあらわれなのだ。スキャンダルを恐れる女性ヘッダには、正体がなくなるまで泥酔して髪にブドウの葉を巻き付けて踊るという選択肢はない。『人形の家』のノラは少なくとも踊ることができたが、ヘッダは社会にがんじがらめにされているせいで、酔って踊ることすらできないのだ。