西部の街もヒッピーコミューンも、人の集まりは所詮同じ~『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(ネタバレあり)

 タランティーノの新作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を見てきた。

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 舞台は1969年のハリウッド。人気テレビ西部劇の主役だったが、うまく映画に進出できずに最近落ち目のアクションスター、リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)と、専属のスタントマン兼世話係で親友でもあるクリフ・ブース(ブラッド・ピット)が日々だべっているお屋敷の隣に最近、飛ぶ鳥を落とす勢いのロマン・ポランスキーとその妻である新人女優シャロン・テイト(マーゴ・ロビー)が引っ越してきた。リックはキャリアのことでいろいろ悩みを抱えているが…

 

 アメリカでは極めて有名で、おそらくはロサンゼルス界隈の人なら誰でも知っていると思われる地元の歴史的事件であるマンソン・ファミリーによるシャロン・テイト惨殺事件を扱った映画…なのだが、実はシャロンはあまり出てこない。主役はあくまでもリックとクリフで、この人生が煮詰まってしまったもののお互いに対する愛情だけは強い2人がドタバタとブロマンスをする様子が丁寧に描かれる。基本、落ち目のキャリアに悩んでアルコール依存症気味のリックが悩んだり泣いたりするのを、余裕たっぷりで落ちついたクリフが慰める、みたいな内容だ。どうやらリックは女神のように美しい隣人シャロンとその若くて才能ある仲間たちに興味があるらしいのだが、なかなかお隣さんからご招待されない。この、変わり者で人生が詰み気味だが友情で結ばれている男2人がひたすら「お呼び」がかかるのを待っている、という構造はまるでベケットの『ゴドーを待ちながら』みたいである(後で書くように、ゴド待ち同様、この作品では作中で同じことが2回起こるし)。この映画におけるシャロンはある点では神のような高次の存在で、台詞が少なく(一応シャロンジョアンナの会話でベクデル・テストはパスするのだが)、フツーに日常生活を送っているだけなのにやたらキレイに撮られているのもおそらく彼女になんらかの神聖性みたいなものを付与したいのだと思われる。そして『ゴドーを待ちながら』であればゴドーは来なくて全く出口がない…のだが、ちょっとしたきっかけからリックとクリフは自分でも気付かないうちにシャロンを救ってしまい、リックには女神シャロンからお声がかかってお隣さんと自宅を隔てていたゲートが開き、どん詰まりからの脱出がもたらされる。なお、映画の終わる時点ではシャロンを含めて誰もこのことに気付いておらず、神なのに自分が救われたことに気付いていないシャロン涼宮ハルヒみたいである。

 

 なお、リックが自分からシャロンに声をかけないというのも面白いところだ。どうもリックの意識の中では、若くて上り調子のポランスキーシャロンと、映画のキャリアが頓挫気味の自身の間にはハリウッド内での階級差があるようで、リックからシャロンに声をかけることはできないらしい。そういうわけで階級の高いシャロンからご招待されるのを待つわけだが、リックが社交の決まりをしっかり守っているあたり、まるでジェーン・オースティンの小説のようだ。リックは口汚いところもあるが、わりとシャイで奥ゆかしいところもある男である。

 

 この映画の面白さとして、重要な出来事に関しては別の文脈で同じことが二度起こるようになっていて、それがさまざまなものを象徴している、というところがある。この作品ではリックやクリフがヒッピー文化についてネガティヴな発言をするところがあり、さらにマンソン・ファミリーの犯罪が主題なのでヒッピー文化嫌いみたいなものが前に出てきている印象を与えるのだが、よく見るとこの繰り返しを使ってヒッピー文化を相対化しているところがある。たとえばリックがスタジオで西部劇の撮影をするところで、西部の街に入っていくとよそ者がうさんくさい目で見られて暴力沙汰に発展する、という場面を撮るところがある。同じ日にクリフがヒッチハイクで拾ったヒッピー娘プッシーキャット(マーガレット・クアリー)をマンソン・ファミリーが住むヒッピーコミューンに連れて行くと、コミューンの人々がクリフに警戒して暴力沙汰に発展し、クリフは西部劇みたいな目にあうことになる。これは、古いアメリカを象徴する西部の街も、新しいアメリカを象徴するヒッピーコミューンも同じくよそ者に対して排除的なのだということを示していると思う。また、ヒッピー娘プッシーキャットはマンソン・ファミリーの中では比較的善良な存在で、女神シャロンとほとんど同じ姿勢で裸足を露出して座る場面がある。実は19世紀の西部の街も、ハリウッドの映画界も、ヒッピーコミューンも、人の集まりという点ではたいして変わらないのかもしれない、ということが暗示されているように思う。

 さらに、全体的にリックが撮影所で経験することとクリフが同じ日に街で経験することはリンクしており、この2人の絆が強すぎて別々にいる時でも同じような経験をしているのか…と思わせる効果がある。上にあげた暴力沙汰はもちろん、リックが子役の少女マリベラ(本名はトルーディらしいが、役名で呼ばれたがっている)に会っている時にクリフはプッシーキャットと出会うなど、2人の経験はパラレルになっている。

 

 全体としては、こういう感じで数人のメインキャラクターの行動を丁寧に撮っているのだが、最後の15分くらいで物凄い暴力が起こる。このあたり、ちょっとジョン・ヒューストンの遺作『ザ・デッド』(ひたすら人々が社交してるところを丁寧に撮り、最後の最後ですごい展開がある)を思い出した。また基本的に「ブラピとレオ様を一緒に出したら面白いんじゃない?」っていう発想でできているところは、これまたスタンリー・キューブリックの遺作である『アイズ・ワイド・シャット』(これは「トム・クルーズニコール・キッドマン夫妻を一緒に出したら面白いんじゃない?」でできてる映画だと思う)とか、大島渚の遺作である『御法度』(これは監督が難しいことをやめていい男を撮りたかったらしい)を思い出した。この作品はけっこう、映画監督の晩年の様式になっているように思う。まあ、タランティーノはまだ死なないと思うが、本人も10本しか撮らないと言っているし…