受動的な創られたヴィラン~『ジョーカー』(ネタバレあり)

 『ジョーカー』を見てきた。『バットマン』の悪役であるジョーカーがどうやってジョーカーになったのかを描いた作品…というのは建前で、ほとんど別の映画である。

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 ゴッサムシティに住むアーサー(ホアキン・フェニックス)はピエロの仕事をしながら母ペニー(フランセス・コンロイ)の介護をしている。アーサーは突然笑い出してしまうおそらくトゥレット症と思われる症状を抱え、精神的にも不安定でカウンセリングと投薬を受けているが、それでも憧れの仕事であるスタンダップコメディアンを目指して頑張っていた。しかしながらゴッサムシティが荒廃するとともにアーサーの人生はどんどん下り坂になる。ピエロの仕事の最中に悪ガキどもに襲われ、仕事はクビになるし、市当局が福祉を打ち切ったせいでカウンセリングも投薬も受けられなくなる。度重なる不幸のため限界になったアーサーをどんどん狂気が蝕んでいく。

 

 あらすじだけ書くと顕著だが、これ、テーマとしては『わたしは、ダニエル・ブレイク』とたぶんほとんど同じである。真面目に働いていて介護もやっていた人が福祉を切られたせいでどんどん人生が詰んでいき、人間としての尊厳のために抵抗を…ということで、たぶんケン・ローチトッド・フィリップスは同じようなものを描きたいと思われる。しかしながらアーサーがダニエルと違っているのは、心の病気のせいもあってアーサーが非常に消極的で、人から何かヒントやアイディアをもらわないと抵抗も悪事もできないということだ。ダニエルはまだ自分で抵抗する元気があったが、アーサーはあまりにもいろんなものを剥奪されていて自分から行動を起こすことができず、アメリカンコミックのヴィランとは思えないほど受動的だ(そもそも妄想が多くて信頼できる語り手ではなく、現実を明確に認識するよりは頭の中で処理しているというのもこの受動性と関係あるかもしれない)。この映画でアーサーが行う復讐や悪事のほとんどは自分で独自に考えついたものではなく、周りから示唆されて思いついたものである。特徴であるピエロメイクは仕事で使っていたものだし、銃で身を守ろうとして殺人事件を起こしたのは職場でランダルに示唆されたからだし、自宅での殺人は恨んでいる相手が訪問してきたからだし、テレビ出演も自分で働きかけたのではなく、転がり込んできたものだ。ジョーカーという名前すら、自分でつけたものではない。母親殺しはちょっと様子が違うが、ここはおそらくプロットの転換点だ。アーサーは(どうやら血縁がないかもしれないのだが)母ペニーと同じ恋愛妄想を抱えていて、ここは象徴的に自分の一部も殺しているのだろうと思われる。自宅で元同僚のギャリーを殺さずに逃がしてやることからもわかるように、この作品のアーサー/ジョーカーは手当たり次第に積極的に悪いことをするのではなく、発生した状況に応じて嫌いな相手を血祭りにあげているだけである。正直、アーサーに大がかりな悪事をやり遂げる才能があるようには思えない。アーサーは心の病を抱え、自分を虐めた相手に復讐しようとしているだけの人である。もちろん復讐のために残虐な殺人をするのは倫理的に問題があるが、明らかに苦労と病気が原因で、他人を無差別に傷つけることじたいが楽しいとか、他人をコントロールするのが楽しいというような側面はあまり見られない。

 

 アーサーはそういう受動的なヴィランなのだが、どういうわけだか周りが勝手に彼を政治的反逆の旗印とか悪の天才に祀り上げてしまうという点で、これはメディアサーカスが創ったヴィランとしてのジョーカーの物語である。しかしながら、アーサーの貧困や病気についてはえらくしっかりリアルに描き混んでいる一方、このへんのメディアの描き方は正直あんまりうまくいってない。まず、舞台が80年代初めくらいの設定で主要メディアが新聞とテレビの時代で、ネットによる拡散の描写が使えないので、殺人ピエロ像が人気になる経過はあんまり立ち入らずにちょっとお茶を濁している。さらにアーサーのビデオがテレビ放映されて人気になる下りは明らかに今のバイラルビデオのそれなのだが、バイラルビデオなんかない時代にこんなことあるかなぁ…という印象を受けてしまう。

 さらに、メディアという点では、なんらかの情報とか感情を伝えるものとしての笑いの描き方とか音楽の使い方にもあまり一貫性が見られないと思う。私はこの映画みたいなネガティブな「笑い」観は正直あまり好きではないのだが、それは別としても、全体的に台詞を用いたスタンダップと身体を使った動きのコメディの意味付けがあまりはっきりしていないように思った。あと、音楽の使い方には非常に一貫性がない…というか、音楽はアーサーの主観にあわせて彼の演劇性を引き出すようなものだけ使うようにして、たまに出てくる50年代頃までの華やかなスタンダードポップスを前面に押し出した派手な音風景にしたほうがいいと思うのだが(根暗なヤツが聴いている明るいスタンダードポップス以上に悲しい音楽なんてあるだろうか?)、なんかやたらと現代っぽい重くて暗い効果音風の音楽を使いたがるのがわざとらしい。ジョーカーとなったアーサーが『君の名は。』に出てきそうな階段で派手なポーズをとるところで"Rock and Roll, Part 2"が流れるのはちょっとびっくりした…というか、なにしろこの曲はとても変な曲である上(ものすごく芝居がかっていて、かつ歌詞が無い)、アーティストのゲイリー・グリッターはペドファイルで逮捕されていて、悪役の誕生を悪役の意識に入り込んで示す曲としては趣味がいいかはともかく非常に考えられた選曲だと思うのだが、やっぱりなんか途中でキザな重い音に変わってしまうところはどうかと思った(なお、ここも本来ならシナトラとかを長く使うべきなんじゃないかと思う)。

 

 そういうわけで、格差社会メンタルヘルスの問題をしっかり扱っているという点ではこの映画は極めて現実に即したリアルな映画だと思うのだが、一方でそれ以外のところではいろいろアラも見える作品だと思った。これはたぶんこの映画がかなりホアキン・フェニックスの演技に頼っているからで、演技に頼れないところでちょっとボロが出ているのじゃないかと思う。

 なお、この映画は非常に男性目線な映画で、ベクデル・テストはパスしないし、最後に出てくる暴動の参加者が大部分男性なあたり、まあトッド・フィリップスが女性をちゃんと描いた映画なんか撮るわけないしなーと思って見ていたのだが、一方でこれはインセルとか「今まで扱われていなかった弱者としての白人男性」みたいなものを描いた映画ではないだろうと思う(一部にそういう批評もあるようだが)。というのも、少なくとも映画に出てくる描写だけ見ているかぎりではアーサーは母親以外の女性に憎悪を向けていなくて、ミソジニーにかられた暴力を振るっているわけではない。さらにこの作品は明らかに心の病を抱えた人についての映画で、病気を抱えて福祉を受けている人というのはむしろケン・ローチみたいな監督が撮ってきた人たちだろうと思う。インセルが好きそうな映画ではあるが、たぶんインセルを描いた映画ではない。