献血ポスター問題について

 ここ3週間近く議論が続いている『宇崎ちゃんは遊びたい!』献血ポスターについて、このようなtogetterまとめが投稿されました。

togetter.com

 これは吉峯耕平弁護士が私と行った議論をまとめたセルフまとめです。セルフまとめで相手の議論について「saebou先生の反倫理的な「すごく高い倫理」」などという中立性に欠けるタイトルをつけるのはどうかと思いますが、あまりにも偏ったまとめであること、またこの話が始まって以来、全く私がしている話を見ずにデマに近い内容を流してくるツイッターアカウントや嫌がらせをしてくるツイッターアカウントが後を絶たないため、自分の意見をまとめてここに書いておこうと思います。

 

 1. どうして私が献血にこだわっているのか

 私が生まれた時、母親が輸血で肝炎になりました。母親はしばらく入院し、その後仕事も辞めたりいろいろありましたが、今は元気です。私の母親はあまりそういうことを気にしない人なのですが、子供の時、母親が病気になったり仕事を辞めたりしたのは自分のせいなのかもしれないと思いました(今はそう思っていませんが。なお、今回の議論では「肝炎被害者家族なんて嘘だろう」と言ってきた人がたくさんいました)。

 こうした輸血による病気の発生は売血など、血液の扱いが現在ほどしっかりしていなかったことに起因するものです。今の献血・輸血にかかわる事業は肝炎やエイズに関するずさんな対応についての反省から、献血する人、輸血を受ける人の両方を守るため、献血する人の自発性を尊重する高い倫理基準にもとづいて運営されています。このあたりについては以下の記事も参考にしてください。

hbol.jp

tikani-nemuru-m.hatenablog.com

 私は現在、日本赤十字社が行っている献血事業に不信を抱いているとか、安全性に疑問があるとかいうわけではありません。私が自分の生い立ちから強く思っているのは、献血関連事業は過去についての反省を忘れずに高い倫理性と責任感を保って運営を行ってほしいということです。献血は血液を提供する人が、自分の健康に悪影響を与えるような贈与を行うことで成り立っています(これは私が最初から指摘していることです)。他人に健康に悪いかもしれないことを求めるのであれば、自発性を尊重する理念に基づいて真面目な啓発をする責任があるはずです。

 

2.理念をどう広告に出すか

 「献血と輸血に関する倫理綱領」に「献血はいかなる場合も自発的かつ無償でなされるべきである」という一文がありますが、私がこの広告について思ったのは、この広告はこの高い倫理性にもとづく理念に反したことをまるで面白いことでもあるかのように扱っている、ということです。これは完全に広告じたいのデザインが悪くて日赤に責任があるという指摘であり、この広告を見て献血した人が悪いとか、この広告が自分の健康に無関心な人を惹きつけているというようなことでは全くないです(私に「オタクの血は汚れているとでもいうのか」と言ってきた人がたくさんいますが、どこをどうしたらそう読めるのか全くわかりません。私はずっとこの広告が提供者を軽視しているというような主張をしているので)。

 なぜこの広告が日赤の理念に反していると考えたかというと、この広告内では性的好奇心や劣等感に訴えて人に献血をさせることがまるで面白いことでもあるかのように描かれているからです。まず、宇崎ちゃんの胸が絵の真ん中にあってやたらと強調されています。そもそも公共的な広告で女性を性的対象化してアイキャッチに使用するのは一般的に性差別の観点から避けたほうがいいとされていますが、これは献血の広告なのでさらなる問題があります。セクシーな女性に言われてふらふら献血してしまう、というような状況は、まあドタバタコメディ映画だったら面白いかもしれませんが、提供者にしっかり当日の体調などについて考えほしいというようなことを啓発しなければならない日赤の広告としては、本来ダメな例であるはずです。最近、ややセクシーな看護師の服装で健康診断の勧誘を行うと受診率が高くなるという研究が発表され、これは倫理上問題があるのではないかということで雑誌側がおわびの文を出したということがありましたが、強い刺激、とくにセクシーさで人の健康やプライバシーにかかわることに訴えようというのは、医療の場では問題視されてもおかしくありません。しかしながらこの広告はそういう状況を何か面白いものとして扱っています。

 さらに問題があるのが台詞です。宇崎ちゃんが、注射が怖いから献血しないのではないかと劣等感を煽っていますが、これは自発性を尊重する倫理的理念からして、本来は「これはやってはいけません」という例になるような状況であるはずです。病気などのプライベートなことがらで献血できない人もたくさんいるし、ふだん健康な人でも献血前には自分の体調について考えてもらったほうが啓発としてはいいに決まっているからです。しかしながらやはりこの広告は、これを面白くてとくに問題がない状況であるかのようにネタ扱いしています。全体として、セクシーな女性が劣等感を煽って献血させようとする、というのは、実際の献血時には日赤が絶対におすすめできないようなことであるはずです。

 なお、私はこれについて日赤のデザインが理念に合致しないので問題があるという話をしており、これを見て性的好奇心や劣等感をかき立てられた人が献血しかねないとか、この漫画を広告に使うべきでないとかいうような話は一切、していません。全部日赤に責任があると思います。

 なお、これについて「このポスターに反対することで献血量が減る、どうしてくれるんだ」ということを言ってきた人がたくさんいましたが、多少理念にもとづいてデザインを改善した程度でどうして「献血量が減る」ことが予測できるのか、私には全く納得できませんので、対案を出す必要などは一切、感じません。

 

3. 作品の倫理的側面について議論するのは法律でも、規制でもない

 次に上のtogetterまとめにかかわる話に入りますが、きっかけは私が「医療広告分野」という言葉を使ったところ、吉峯弁護士が「医療広告は法律で決まっていて献血の広告は医療広告ではないからお前は間違っている」と言ってきたことです。文脈からして、この「医療広告分野」というのは日常的な語彙で話をしており、法律に関係ないのは明らかですが、吉峯弁護士はこれをわざと法律用語と考え、法律に反していないからいいんだ、と言ってきました。これについては日常会話でもやっと出てきた単語を強引に法律用語扱いしているということで、法律を学んだことがあるような方々からも吉峯弁護士に対してコメントがありました*1*2*3*4。ここで法律の話が出てくることじたい、おかしいと思います。

 法律と倫理は大きく違うものです(このへんなど参照)。法律は倫理の最低基準を定めたもので、倫理はもっと広くいろいろなものを含んでいます。たとえば、学校に遅刻した言い訳で先生にウソをつくのは倫理的にあまりよろしくないことですが、法律には反していません。それでも「遅刻して学校の先生にウソをつかないほうがいい」ということは別に主張してかまわないでしょう。私は自分の発言の中で、このポスターを法律で規制するべきだというようなことは一切、言っていません。

 また、芸術作品の倫理的問題を指摘することは規制と一切、関係ありません。芸術作品の場合、倫理的に問題がある行動や倫理的に問題ある人物が出てくるかどうかと、その作品が倫理的に問題あるかどうかはあまり関係ないのですが、たまに明らかに倫理的に問題ありそうなことがヒーローの行動として全肯定されているとか、そもそも時事ネタの取り上げ方が扇情的でついていけないとか、「ちょっとこれ倫理的にどうかと思う」みたいな作品はあります。これについて「倫理的にそれどうなんだ」と指摘するのは全くの自由であり、規制と関係しません。たとえば私はキャサリン・ビグローの映画についてちょっと倫理的にどうかと思うことが多くてよく言っているのですが、これはキャサリン・ビグローの映画を規制しろという意味ではまったくないです。

 なお、このような倫理的側面に関する指摘とか改善のサジェスチョンとかを読んで、クリエイターが以降それに従って作品を作るようになったとしても、全く表現の自由は侵害されていません。私は以前、『ユリイカ 2019年5月号』でスパイク・リー監督が自作の性暴力描写について批評でかなり厳しく問題を指摘され、それ以降の作品では気をつけるようになったという話を書いています。スパイク・リーは批評を読んでそのほうが自分の作品のクオリティを上げると思ったからコメントを反映しただけです。

 他の人は知りませんが、私は献血ポスターについて取り下げるべきだとか献血をボイコットすべきだとか作品じたいを売るべきでないとかは一切言っておらず、できれば次回以降デザインにもっと留意して改善してほしいと考え、発言しています。自由な言論というのは法的規制の外にあるもので、表現は批判の応酬を通してトレンドができるものです。私が何かを批判する時は、規制ではなく自由なトレンドの変化により表現の質が向上することを考えてやっています*5。どちらかというと、私は表現の質についての議論で「法的規制がないからOK」みたいな話をすると、「じゃあ法的規制をしよう」という人が出てきてむしろ法的規制が呼び込まれてしまうのではないかという不安すら持っています。

 

4. 広告は他の芸術と違う

 一方、広告は他の芸術と大きく違うところがあるというのも問題です。ほとんどの芸術作品は自由なコンセプトに基づいて作られますが、広告はものを売るとか人に告知をするという限定されたコンセプトで作られるものです。このため他の芸術に比べると制約が大きく、一目見ただけで何を人に知らせたいのかわかるような形にしないといけないため、長めのまとまったテクストでいろいろなことを表現できる映画とか小説とかとは根本的に違う表現形式をとらないといけません。なお、これは広告が芸術ではないということは意味しません。他の芸術とかなり違うというだけです。

 たとえば、大炎上したブレンディの広告は、あれがちょっと違う形で短編ディストピアSF映画として芸術祭で上演されていれば良かったのかもしれませんが、ブレンディの製品について肯定的な関心を持ってもらうという目的は全く実現できていません。ちなみに私は #劇場ダメチラシ というハッシュタグをやっていますが、ここで批判する基準は芸術作品とかなり違います(「文字が読みづらい」みたいな基準で批判してます)。 

 さらに、ものを売ることを目指しており、公の場に掲示される広告については過度な煽りや劣等感に訴えて何か買わせようとすることは問題だと見なす向きも多く、日本を含めていろいろコードがあります。イギリスではショッキングなものや子供が安全でないことをしている様子を描くものなどについては業界団体の規制があり、あまりにも性差別的な広告は掲載できないという 規則も最近加わりました。広告であるからには煽りなどが含まれざるを得ないところもありますが、これは過剰なものを避けるための妥協的な規則と言えるでしょう。

 

5. オタク文化だけ攻撃されている?

 「オタク文化ばかり攻撃されている、今回もいろいろ理屈をつけているが自分がオタク文化が嫌いなだけだろう」という指摘もありますが、これはかなりの間違いです。ルミネ、資生堂、キリンビバレッジ、サントリー、宮城県、ユニ・チャームなど、実写の映像や画像などの広告や、ちふれなどのようにキャッチコピーで問題になって大炎上した広告はたくさんあります。

 私個人としては、ふだん批判しているのはだいたい演劇の宣伝が多くて(これとかこれとかこれとか)、いわゆる「萌え絵」的な広告で大きく批判したのは自分の仕事や経験に関係あるものです。演劇の宣伝はかなり手厳しく批判してもほぼ誰も応答しません(『わが家の最終的解決』だけはちょっと議論になりました)。

 

6. おまけ:shinkai35さん、私は『トーク・トゥ・ハ-』が嫌いです

 あんまり関係ないのですが、@shinkai35さんがこの流れでこういう発言をしていました。

  私は『トーク・トゥ・ハ-』を自ブログではっきり嫌いだと言っており、shinkai35さんが私がこの映画を評価した理由としてあげている2つのツイート(これこれ)はモチーフを分析しているだけで褒めてません(なんで褒めていると思ったのかよくわかりません)。ということで、私は『トーク・トゥ・ハー』は嫌いです。

*1:https://twitter.com/kasumi_shiro/status/1191328280932048897

*2:https://twitter.com/kasumi_shiro/status/1191730889996341254

*3:https://twitter.com/todateyoshiyuki/status/1191563100379467781

*4:https://twitter.com/poirot_mustache/status/1191268461961330689

*5:これについては私が学問的にスタンリー・フィッシュの解釈共同体論に依拠しているからというのも大きいので、この手の議論に興味がある人には『このクラスにテクストはありますか (解釈共同体の権威)』を強くおすすめします。著者のフィッシュは法の素養もある人です