あれでは翻訳はできないよね…『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』(ネタバレあり)

 『9人の翻訳家 囚われたベストセラー』を見てきた。

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 舞台はフランスの豪邸のシェルター地下室である。オスカル・ブラウンのベストセラー『デダリュス』を、ネタ漏れがないようにフランス語から各国語に翻訳して同時発売するため、9人の翻訳者(ロシア語、英語、ギリシャ語、デンマーク語、中国語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語ポルトガル語)が地下室に缶詰にされることになる。しかしながらネットを遮断し、外界との交流もなしの厳密なセキュリティ下で翻訳がすすめられているにもかかわらず、原稿の一部が流出し、出版社に対して金を払わないとさらに原稿を流出させるという脅迫が送られてくる。犯人はおそらくこの地下室にいる誰かだ。社長であるアングストローム(ランベール・ウィルソン)は激怒するが…

 一種のソリッド・シチュエーション・スリラー+クローズド・サークルものミステリである。けっこう無理のある設定と展開に目をつぶればミステリとしてはけっこうスリリングで面白い。オチがちゃんと文学への愛という熱いテーマを示すものになっているし、役者陣がそれぞれけっこう濃いのも良い。

 ただし設定はかなり現実離れしている…というか、ダン・ブラウンの『インフェルノ』を翻訳した時の話にヒントを得て作られたらしいのだが、いまどきネットなしでこんな大著を缶詰で翻訳なんてリスクが高くて引き受けられないだろう…と思う。ネットがないということは現在の標準的な翻訳ツールであるオンライン辞書コーパスもデータベースも使えないし、小説の中に出てくる海外人名とか商標、作品タイトルの自国語表記とかも調べられないということだ。ダン・ブラウンの小説なら著者が元気なのでわからないところは本人に聞いたら教えてくれそうな気もするし、話じたいが難解というわけではないと思うのでおそらく決まったレファレンス資料さえあればある程度対応できるかもしれないと思うのだが、この映画に出てくる『デダリュス』はジェイムズ・ジョイスの影響を受けた大作ミステリで熱烈なファンコミュニティがあり、大学でも研究されている作品だそうで、たぶんダン・ブラウンよりだいぶ難しい本だと思われる。しかも著者のブラックは人前に出ない人で、わからないところを著者に聞くというプロセスも存在しないらしい。そんなもん訳せないだろ…

 これはネタバレになってしまうのだが、訳す対象の言語がほとんどヨーロッパの言語で、アラビア語とか日本語とかが無いというところがポイントだ。中国語の翻訳者もパリ在住である。つまり、訳者のほとんどがEU圏に住んでいる。しかしながら重要人物でシェンゲン圏に住んでいない人がおり、これはBrexitの後には作れない作品だ、しかしそうはいってもいったいこいつはどうやってアレをアレしたんだ…と思っていたら、最後はシェンゲン協定すら必要なくなる驚愕のオチがあり、まったく怒濤のEU展開だった(何が何だか全然わからないと思うが、精一杯ネタバレしないように書いたつもりである)。