ハイパーリンクと男らしさ~『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』

 『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を見てきた。1969年の東大駒場の900番講堂で行われた三島由紀夫全共闘の討論会に関するドキュメンタリー映画である。

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 TBSに残っていた記録映像をもとに再構成したものだということで、それに解説などがついている。全体的にハイパーリンク映画のような作りで、討論中によくわからない言葉が出てくると、ウィキペディアの内部リンクをクリックするみたいな感じで、解説映像と一緒に東出昌大がナレーションで説明してくれる。69年に共有されていたらしい時事ネタなどが全くわからないのでこの注は絶対必要である。さらに、とくに時事問題などが絡んでいなくても、69年のコンテクストがないとほとんどわからないような議論がわりとあり、これについては平野啓一郎などが三島や全共闘の学生が何の話をしているのかについてまとめてくれる。

 ただ、ハイパーリンク解説の面白さにはけっこう人によって差がある。当時この議論に参加した人や三島の関係者などにコメントをとるのは必要だろうと思うし、東出の情報を入れるナレーションも役立つ。ただ、私はこの手の映画には学者の解説が必要だと思うほうなのだが、正直内田樹小熊英二の解説は必要かな…と思った。三島のように特異な人の話を解説するのには小熊英二はざっくりしすぎているような印象を受けたし、内田樹はまあそう悪くないのだが、平野啓一郎の話のほうが似たような内容をより面白くわかりやすく解説しているような印象を受けたので(三島の再来と言われているだけあって、話もうまいし注ぎ込んでいる知的情熱の量がすごい)、こちらの話をもっとたくさん聴きたいという印象を受けた。

 

 また、おそらくこの映画をそのように見るのはダメだろうと思うし、そういう自分の見方に正直若干の嫌悪を感じるのだが、これはある種のねじれたBL映画なのではと思うくらいものすごくホモエロティシズムに関する映画である。何しろ当事者はご存命の方と、定義が難しいとは思うがおそらくはクローゼットな同性愛者で大変ショッキングなやり方で自殺された方なので、いくらなんでもそのような消費のしかたは無礼だとは思うのだが、そうは言っても何かものすごくホモエロティックなものがあるのに、それに誰も気付いていないフリをすることで成り立っているような映画なのである。とにかく女がほとんど出てこなくて、900番講堂に話を聞きに来ている人のほとんどは男性だし(画面に映っているかぎりでは女性は本当に数名しかいなかった)、主要な人物として出てくる女は性的要素を変なやり方でほぼ剥奪されている尼僧(瀬戸内寂聴)と赤ん坊(芥正彦の娘)だけである。1969年の政治というのがとにかく党派を問わず男性的なものとして提示されており、過剰なヘテロセクシュアル的男性性で武装あるいは偽装した男たちが知性を使ってわいわいがやがややっている映画になっている。三島は知ってのとおりやたら体を鍛え、自衛隊体験入隊し、楯の会を作って「男性らしさ」による武装を行っていた人だし、メインの論敵になるカリスマティックな若い演劇人である芥正彦は赤ん坊である自分の娘を連れてきていて、この2人とも自分の男らしさを900番の壇上でそれぞれ違う形でアピールしている。この2人の間で政治思想は異なっていてもある種の美学が通じてしまうというところにすごいホモソーシャル感(そして誰も口にしないし、したがらないホモエロティシズム)がある。自分でもそんなところに注目しているのはかなり不健全であると思ったのだが、芥正彦が900番の壇上で三島のたばこに火をつけてあげるという腐女子爆釣…というかこの集まりのホモソーシャル性を象徴するような記録映像がある。思想の差異を越えて、身体が身につけた無意識な習慣によって男同士がつながってしまうのである。

 この映画にはご丁寧に「三島と青年」というセクションがあり、三島が楯の会から全共闘まで若者たちとどう接していたかということについての回想がある。みんな真面目にいろいろ三島の美学とか理念とかを話す…ものの、三島のセクシュアリティのことは誰も話さない。この映画の不在の中心はたぶんホモセクシュアリティである。ホモセクシュアリティに言及しないことで成り立つ、エロティックで典型的かつ古典的にホモソーシャルな共同体の映画なのだ。