メガネっ子の重要性について~『十二人の怒れる男』(ネタバレあり)

 シアターコクーンでリンゼイ・ポズナー演出の『十二人の怒れる男』を見てきた。映画は見たことがあるのだが、舞台版を見るのは初めてである。

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 12人の陪審員が殺人事件に関して審議を行い、評決に達するまでを描いた法廷ものである。父親を殺した容疑をかけられている十代の息子が有罪かどうかが焦点で、皆有罪に傾いているのだが、陪審員8番(堤真一)だけが反対し、死刑判決が下るような裁判なんだからきちんと議論を尽くさねばならないと主張する。

 ポズナーは新型コロナのせいで来日ができず、リモートで演出をしたらしいのだが、大変しっかりした芝居で、おそらくいろいろ苦労もあったのだろうが、そのあとが全然見えないようなスムーズで堅実な出来だった。舞台左側にお手洗い、右側に出口のドアがあって、真ん中には12人が順番に座る机があり、客席側に窓がある設定らしい。陪審員が入ってきてから出ていくまでをほぼリアルタイムで描いている。

 民主主義と、法の公正さを保つためには市民がきちんと考えて政治や司法プロセス対して参加をしなければならないということの重要性についての芝居であり、大変真面目な作品である。それぞれの陪審員は名前がなく、番号だけで呼ばれるのだが、けっこう全員きちんとしたキャラ付けがある。ちょっとウザいところもあるが市民としての理想を追い求めて努力していると言えるであろうアメリカンヒーロー的な8番と、とにかく物事は筋が通っていなければならないと考えている非常に頭脳明晰な4番(石丸幹二)がかなり目立つ役で、それ以外にもどうやらユダヤ系でドイツから亡命してきたのではと思われる11番(三上市朗)とか、貧しい生まれでそれを隠しているがストリートスマートなところがある5番(少路勇介)とか、穏やかなご老人だが鋭いところのある9番(青山達三)とか、みんなキャラがはっきりしている。12番(溝端淳平)は広告代理店勤めということなのだがえらく軽薄な性格で、この作品が最初に書かれた50年代半ば頃からそういうステレオタイプがあったのか…と思った。また、10番(吉見一豊)がひどい階級差別発言をするところは、たぶんこの芝居はそういうふうに型にはまった考えはいけないということを示唆する作品ではあるのだが、「今ならこの人Qアノンまっしぐらだな…」とか思ってしまった。女性や非白人らしい登場人物がいないという点で50年代の作品ではあるのだが(50年代のユダヤ系というのは今よりだいぶ二級市民扱いだったのかもしれないと思うが)、法の正義は市民のたゆまぬ努力と議論によって培われるということを示した作品だ。

 そういうわけで大変真面目な作品なのだが(笑うところはいっぱいあるけど)、私が思ったのは、この芝居は最強のメガネっ子燃え(萌えではないかも)芝居なのではということである。4番がメガネをかけており、このメガネは単に4番が真面目で賢明だということを示唆するだけではなく、最後の最後に4番がメガネっ子であることがプロットの重要な転回にかかわってくる。これだけ登場人物がメガネっ子であることがキャラの点でもプロットの点でも大事になってくる芝居というのはあんまりないのではないかと思う。

 

 

十二人の怒れる男(字幕版)

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