ミドルクラスの妻が他人の職探しを妨害する話って、今の視点で面白いですかね…ブリストル・オールド・ヴィク『ヘッダ』(舞台配信)

 ブリストル・オールド・ヴィクの配信で『ヘッダ』を見た。イプセンの『ヘッダ・ガーブレル』を、21世紀のロンドン、ノッティング・ヒルを舞台にルーシー・カークウッドが書き直したものである。

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 だいたい設定は原作に忠実なのだが、ここが問題…というか、21世紀のロンドンで『ヘッダ・ガーブレル』のままの設定だと、ヘッダに全く同情できないというか、そもそもイヤな女であるヘッダがさらにイヤな女に見える。もとの戯曲『ヘッダ・ガーブレル』は19世紀の北欧が舞台で、ミドルクラスの女性にとって自由がなかった時代にフラストレーションを溜めている女が暴発するという物語である。ここにイヤな女ヘッダがだんだん気の毒に見えてくる仕掛けがあるのであって、世の中が激変しつつあってそれに憧れがあるのに、ヘッダは今までの価値観から逃れられないというのがポイントだ。

 ところが21世紀のロンドンが舞台、男たちはオクスフォード育ちの学者でヘッダはその妻…ということになると、そもそもなんでヘッダがそんなにフラストレーションを溜めているのかよくわからない。ヘッダは優秀そうだし、いくら今はあんまりお金がないとは言ってもこのご時世ではけっこういい暮らしをしていると言えるミドルクラスの妻なのだが、自分で研究して学者を目指すでもなく、仕事や社会活動をするでもなく、ただ不機嫌で不幸なのである。いくらでもできることがありそうなのにただぶーたれているミドルクラスの妻という役柄は、今の時代ではそんなに面白い人物像ではないと思う。

 さらに、これは個人的な趣味の問題なのだが、見ているこちらが研究者なもんで、男どもが大学教員の職をめぐって苦労しているところがちょっとシャレにならないくらいリアルで、あんまり学問に対する理解もなくこの職をめぐる戦いをただ邪魔するヘッダが本当に不愉快な人に見える。しかもこのプロダクションでは原作のレーヴボルクにあたるイーライ(イッサム・アル・フセイン)がたぶん移民の子孫なので、移民の背景を持ちつつ一生懸命立ち直って学問に貢献しようとしているイーライをヘッダが破滅させようとするのはずいぶんと見ていて気が滅入る展開だ。

 そして19世紀だと、夫のもとを出てレーヴボルグを手伝うテアというのは新しい時代に適応しつつある女だったわけだが、21世紀に同じような設定だとテアは単なる健気な昔ながらの女性にしか見えない。今では離婚はありふれているし、妻が夫のもとを出てきたとかいうのはとくにスキャンダラスではないからだ。そうなるとヘッダがテアに嫉妬する理路があまりよくわからないというか、ヘッダの不満というのが女性を取り巻く社会的な環境に関係するものではなく、単なる個人的な恋愛問題に還元されてしまうように見える。

 そういうわけで、私はこの翻案は見ていてあまり面白いと思わなかった。美術とか演技、また最後の自殺したヘッダが運ばれてくる演出とかは良かったのだが、まあ個人的にあんまり好きな芝居ではなく、もとの『ヘッダ・ガーブレル』のほうがずっと好みである。