あずまやのかわりにクロークで~日生劇場『メリー・ウィドー』

 日生劇場で『メリー・ウィドー』を見た。台詞も歌も日本語で、歌には日本語の字幕がつくというものである。指揮は沖澤のどか、演出は眞鍋卓嗣である。www.nikikai.net

 現代の大使館をイメージしたわりとシンプルでカクカクした直線を強調する白っぽいセットで、左奥にレセプション用のクロークがある。ここがポンテヴェドロの田舎風に飾り付けられたり、マキシム風になったりする。ふつうのプロダクションではあずまやが使われるところではかわりにクロークが使われ、ここでヴァランシェンヌ(盛田麻央)にカミーユ(金山京介)が求愛する。あまり大仰にならないよう、現代的でできるだけリアルな雰囲気で全体を統一して、楽しい音楽や笑いをストレートに強調するものである。

 演出のほうもわりとリアル志向で、ダニロ(宮本益光)はものすごくこじらせた色男で、どうもハンナ(腰越満美)と別れた痛手のせいでマキシムに入り浸って、あんまり外交官としての仕事も真面目にやってないんじゃないかという雰囲気だ。途中、酔っ払ってだらしない格好で入ってくるところは、エリート外交官とは思えないたるんだ様子である。一方、ハンナはたいへん現実的な女性で、結婚で財産を手に入れた後はダニロをいろいろ試して愛を確認しようとしているし、一方でヴァランシェンヌが窮地に陥った時は助けてあげるという女同士の優しさがある。

 しかし、『メリー・ウィドー』を見るたびに思うのは、この作品は楽しい話だが、どんなに楽しく演出しても家父長制やナショナリズムの影はあるということだ。ハンナの財産が全部夫のものになってしまうというのはなかなかキツい展開だし、ハンナがそういう制約の中でできるだけ情報を統制し、いろんな手段を使って欲しいものを手に入れて「陽気に」生きようとしている様子が、とくにこういうリアル志向の演出だと際立つ。陽気な寡婦は何も心配することがないから陽気なのではなく、家父長制の制約の中で陽気に生きるのはさまざまな手管が必要なのだ。