ホットでセクシーな外見に隠れた、冷たい孤独~NTライヴ『シラノ・ド・ベルジュラック』

 ナショナル・シアター・ライヴで『シラノ・ド・ベルジュラック』を見た。エドモン・ロスタンの有名作をマーティン・クリンプが英語の現代版に翻案し、ジェイミー・ロイドが演出したものである。階段のある箱みたいなセットに現代の衣装で、登場人物は詩のかわりにラップを吟ずる。

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 いろいろ現代風に変えてあるのだが(台詞では一応、17世紀だとは言っているのだが)、一番のポイントはシラノ(ジェイムズ・マカヴォイ)が付け鼻をしていないことだ。めちゃくちゃハンサムであるはずのマカヴォイがそのまんま出てきて、鼻を気にしている素振りをし、周りの人たちもデカ鼻だと言っている。見ているとなんとなくお客さんもすんなり受け入れてしまうというか、そういうもんだと思って見るようになるのだが、一方で実はシラノの鼻なんていうのはまあちょっとはデカいのかもしれないがたいしたことじゃなくて、むしろシラノがそのせいで自分に自信をなくして必要以上に劣等感に苛まれていることがポイントなんじゃないか…と思えてくる。たとえ鼻がデカいとしても、文武両道で面白くて高潔なシラノはデフォルト状態のジェイムズ・マカヴォイと同じくらいはカッコいいはずなのだが、たぶんシラノはそのことに気付いていない。それが悲劇の始まりだ。

 この「別にシラノの鼻なんてたいしたことじゃない」問題は、最後のちょっとした台詞の改変でも示されている。このプロダクションのロクサーヌアニタ=ジョイ・ウワジェ)は生き生きした生身の現代女性なのだが、賢いはずなのにシラノの恋心に全然、気付かない。途中でちょっとシラノとクリスチャン(エベン・フィゲイレド)の間にホモエロティックな演出があることもあり、ロクサーヌはシラノが男の人のほうが好きだと勘違いしているのかな…と思って見ていたのだが、実は全然違っていたことが最後でわかる。終盤でロクサーヌが待ち合わせに遅れたシラノに対して、女の子に誘われでもしたのかと聞くところがある。ここは原作と台詞が変わっており、元の台本ではシラノのほうからうるさい女性が訪ねてきたとか言ってごまかしている。このプロダクションのロクサーヌには、そもそもシラノが自分の鼻を気にしていて女性と付き合えないとかいう発想がなく、むしろ快男児だからモテると思い込んでいたらしいのである。だからロクサーヌはシラノがコンプレックスに悩んで女性に対する想いを隠すタイプだなんていうことは考えもしなかったのだ。つまり、シラノがロクサーヌに対して、自分は女にモテないから恋を隠そうとかいうようなことを続けていたのは単なる思い込みだったのではないか、ということになる。正直にロクサーヌに話していればいつでも恋を受け入れてもらえたかもしれない。これはものすごく残酷で悲劇的な展開だ。

 この劣等感と孤独に苛まれるシラノの内面をよく表しているのが、登場人物同士がきちんと向き合って話さない演出だ。ラップバトルの場面以外はけっこう動きが少なく、登場人物同士がナチュラルに向かい合ったり、互いに触ったりできないようにわざと椅子に固定で座らせて台詞を言わせるという演出が多い。そのせいかたまに妙に寒々しい印象を受けることがあるのだが、この登場人物同士の距離感は、自分にも他人にもうまく向き合えない、孤独で不器用なシラノの内面を象徴していると思われる。ラップバトルなどがあって一見、ホットでセクシーな上演なのだが、その下に広がっているものは寒々しく寂しいシラノの心である。実に残酷で切ないプロダクションだ。