あのこは実は貴族じゃない~『あのこは貴族』

 『あのこは貴族』を見た。www.youtube.com

 

 東京の松濤で育った榛原華子(門脇麦)と、地方で育って東京に出てきた時岡美紀(水原希子)の暮らしがひょんなところで交錯するさまを描いた作品である。美紀は勉強して慶應義塾大学に合格するが、親の仕事がなくなったため学費が払えず中退し、水商売などで少しずつキャリアアップを目指す。華子は大金持ちの息子である青木幸一郎(高良健吾)と婚約するが、幸一郎は昔、慶應義塾大学で知り合いだった美紀と会っていたことがわかる。

  最近の日本映画の中では、階級とか地方格差を上のほうまで含めてものすごくちゃんと描いた作品である。貧しいほうを描くということであれば最近もうまくやっていたものはあるし、昔は上のほうの階級をちゃんと描いた作品というのもあったと思うのだが、この映画は現在の日本の視点で細かい階級格差と地方格差を丁寧かつリアルに描いている。さらに上の階級の中での階級差までカバーしている。

 美紀が地方から出てくる様子は、地方出身者として見ているとあまりにもリアルだ。美紀はかなりガツガツしていて成績もよいらしいのだが、入る大学が慶應義塾大学で、これはたぶん地方だとトップの公立進学校でも東京の国立大学に入れるよう生徒を教育できるシステムが充実しておらず、塾(これも地方にはあんまりない)に行くかものすごく自習するしかないせいだと思う(地歴を二科目終わらせるのが困難だったりもするので、たぶん美紀の高校から東京の国立大学に入れるのは本当にトップの数名だけだ)。さらに美紀は学費が払えなくて退学してしまう…のだが、ここはああする前に学生関係の部署か指導教員に相談してくれれば…と思うものの、慶應みたいな大きい大学で1~2年が指導教員に突然というのは難しいのかもしれないので(うちの大学みたいに小さいところなら普通にできる)、思い詰めて辞めてしまうのもリアルな感じはする。

 タイトルは一見、松濤に住むお嬢様育ちの華子を指しているようだが、実は違っている。華子が結婚する幸一郎はさらにものすごいお金持ちで、貴族なのはむしろそっちである。美紀の階級からすると貴族のように見える華子よりもさらに上がいるというのは、あまり気付かないところだが日本で現実に起こっていることだ。たぶん華子の祖父母くらいまでの年代なら、地方のあまりリッチでない家庭に生まれても華子の家くらいのレベルまで上がれたのだと思うのだが(私は実際にそういう人を知っている)、幸一郎の家のレベルまで出世するのは絶対に無理である。幸一郎の家はまさに何代にもわたって蓄積された富を守り、維持していくという機能を非常に重視している(幸一郎ほどではなくてもちょっとレベルの違うお金持ちと結婚した人もひとり知っているのだが、そこから推測してなんとなくああいうのもリアルなんだろうなと思った)。

 非常にかけ離れた華子と美紀の人生が交錯するのが、大学と芸術という階級流動装置の働きである。このふたつは階級が上の人々のものとされることがあり、それは間違ってはいないのだが、一方で非常に実力主義的な場所でもあるので、実力さえあればお金や家柄がなくても入っていけることがある。まずは美紀が少しだけでも慶應に行ったことが二人が知り合うきっかけになった。もうひとつのポイントとしては華子の親友である相楽逸子(石橋静河)がヴァイオリニストだということで、イベントで演奏した逸子に美紀が仕事を頼みたいと思ったことで華子と美紀がつながった。逸子は芸術家らしくかなり変わった人で、華子の友達の中でも少し浮いているみたいだし、美紀をお茶の名目で呼び出して華子に紹介するあたりも「普通そんなことするかな…」と思うような感じで、たぶんかなりエキセントリックで非常識な人なのだろうと思う。

 ここで華子と美紀が足の引っ張り合いをせず、だんだんと幸一郎に対する幻滅みたいなものにつながっていくあたりがこの話の面白いところで、美紀は幸一郎と別れるし、華子も結婚はするものの結局離婚を選ぶ。最後にもう一度華子と美紀が会うのだが、ここで二人がとくにすごく仲良くなるとかいうわけではないものの、互いを理解するみたいな感じになるところが良い(華子には逸子、美紀にはりえという親友がそれぞれいる)。ただちょっと思ったのは、ここで華子が美紀から得ているものは美紀が華子から得ているものより大きすぎるのじゃないかな…ということだ。そのあたりに不均衡がある気はするのだが、そうは言っても華子の自立で終わるのはさわやかではあると思う。