マシュー・マコナヘイと「デカチン」の含意(2)~『ビーチ・バム まじめに不真面目』(本日のエントリには下品な表現とネタバレが含まれます)

 先日の『ジェントルメン』の批評の続編として、こちらのエントリではハーモニー・コリン監督の『ビーチ・バム まじめに不真面目』をとりあげ、さらにマシュー・マコナヘイの「デカチン」的役柄について論じていきたい。この作品はまさにマシューのデカチンキャラクター造形が完全に開花している作品である。

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 主人公である才能豊かな詩人のムーンドッグ(マシュー・マコナヘイ)は、アーネスト・ヘミングウェイが愛したキーウェストの周辺で酒とマリファナでラリラリになり、気が合いそうな女がいれば気ままに口説き、さらにめちゃくちゃ可愛いネコまで拾って楽しく暮らしている。働かずに暮らせるのも全て、マイアミに住む大金持ちの愛妻ミニー(アイラ・フィッシャー)のおかげである。しかしながら娘の結婚式に出席するためにマイアミに戻っている間にムーンドッグとミニーはひどい交通事故に遭い、ミニーが死亡してしまう。ところが夫の文才にベタ惚れだったミニーは、著述業を再開しないかぎりムーンドッグに財産を渡さないという遺言を残していた。これを知ったムーンドッグはいろいろなことを考え直さなければならなくなるが…

 とにかくマシューのポジティヴなストーナーヴァイブが炸裂する作品である。出てくる人はみんなすごいバカのようでもあり、それでいてスタイルに対する真面目な美学があるようでもあり、その中でもムーンドッグはずば抜けて魅力のあるキャラクターだ。ミニーとはオープンマリッジで自分も行く先々で女性たちと浮気しているくせに(汚い格好なのにまあモテる)、親友であるミュージシャンのランジェリー(スヌープ・ドッグ)がミニーと長らく愛人関係だったということを知るとちょっと嫉妬して寂しい気持ちも覚えてしまうなど、身勝手なところもずいぶんとあるのだが、それでもまあお互い様だしミニーはイケてるからしょうがないと諦めているあたりの微妙な感情の動きなども面白い。時系列がバラバラのつながってないカットにつながっている会話をかぶせる独特な編集が全体のぶっ飛んだ雰囲気によくあっているが、一方で猫ののどのゴロゴロ音をきちんと入れるなど、音の使い方などが意外と繊細なのもよいところだ。途中で出てくるザック・エフロン演じるフリッカーはなんだか凄い役で、こいつが作中で一番自覚なく暴力的である。フリッカーは放火魔で強盗までやる悪党であり、さらに保守的なキリスト教徒の家庭で育って「神様が全部許してくれるから」的な価値観を持っているせいで良心がないという設定で、このあたりはマリファナよりもキリスト教が悪いという非常に皮肉なジョークになっている。終わり方のアナーキーな華やかさにはまったく感心する。

 そしてムーンドッグも『ジェントルメン』の男たち同様、自分のデカチンをやたら自慢にしている…のだが、この作品のポイントは、ムーンドッグのデカチンは男同士で張り合うためのエゴの道具ではないということである。ムーンドッグにとっては自らのデカチンはとにかく女とわいわい一緒に楽しむためのものであり、うまい酒やマリファナをたくさん持っているのとたいして変わらないもので、独占欲とか暴力性と明確に結びついていない。終盤でランジェリーとミニーについて話すところではちょっとデカチン張り合いみたいになりそうな雰囲気もあるのだが、結局はミニーがいかにいい女だったかの話になってしまい、ここでもムーンドッグのデカチンは友好的なコミュニケーションのためのツールとしての役割を果たして終わっている。デカチンが自慢だという男性でこんなにイヤな感じがしないキャラクターは珍しいのではないかというくらい、ムーンドッグは爽やかにデカチン力を振りまいていると言えるだろう。終わり方からして、ムーンドッグは実はお金などにもたいして執着しておらず、楽しさ以外のパワーを欲しがっていない。これだけ自分のデカチンにこだわっているくせに、デカチンのネガティヴ要素を最小限に抑えつつ、自分の「男性らしさ」を平和的に楽しんで生きているムーンドッグはまさにマシューのこれまでのイメージを生かした役である。『ビーチ・バム』におけるムーンドッグはデカチンであるくせにそれに伴うネガティヴでつまらない競争から解放されており、まさに自足的なデカチン、人をねたまず自分のデカチンを楽しむ態度の究極の形と言えるであろう。