聖なる童貞の父ふたたび、そして子どもの幻想~『ソー:ラブ&サンダー』(ネタバレあり)

 タイカ・ワイティティ監督、マイティ・ソーシリーズ最新作の『ソー:ラブ&サンダー』を見た。

www.youtube.com

 全体がコーグ(タイカ・ワイティティ)の語りの枠に入っている。ソー(クリス・ヘムズワース)は瞑想したり、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーと冒険したりしていたが、神を敵視し抹殺を企むゴア(クリスチャン・ベール)がニュー・アスガルドの子どもたちを誘拐してしまう。ソーはニュー・アスガルドの王であるヴァルキリー(テッサ・トンプソン)、ミョルニルを持つマイティ・ソーとなったかつての恋人ジェーン(ナタリー・ポートマン)、良き相棒コーグとともにアスガルドの子どもたち奪還に挑む。しかしながらジェーンは秘密を抱えていた。

 全体的にはワイティティ監督らしいユーモラスなタッチの作品だが、一方でやたらとロマンティックなところがあるのもワイティティらしい。ワイティティは『シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア』の時から情熱的な恋愛が好きな監督だと思うのだが、本作のソーとジェーンの掛け合いはロマコメみたいである。また、人間ではないミョルニルとストームブレイカーがソーを挟んだ三角関係になるあたりがなんとなくクィアで、ここもワイティティっぽいと思った。さらにヴァルキリーとコーグがクィアな恋バナで盛り上がる場面もあり、ここも面白い(コーグの故郷のクロナン人の文化では愛し合ったカップルが決断しないと子どもができないみたいで、実にうらやましい生殖方法だ)。

 予告でソーが急に全裸になる場面については、私はソーが自分に意志に反して全裸にされるところを楽しむみたいなイヤな感じの展開になっていたらどうしようとちょっと心配していたのだが(『バーバレラ』みたいな昔のお色気SFをジェンダー反転するみたいな危険なことをやろうとしているのでは…と予想していた)、たしかにちょっと昔のお色気SFの反転パロディみたいなところはありつつ、この事態を引き起こしたゼウス(ラッセル・クロウ)が大変なダメ神で結局はボコボコにされ、後でソーがこの件でちょっと気を遣われた時には「いやいや俺は大丈夫だから」みたいな反応を示しているということで一応は拾っていて、そこまでイヤな感じはしなかった。ただ、MCUでは前回のメンタルヘルス問題による肥満の時からこの場面も含めて、ソーの身体がなんかちょっと軽く見られている気はするので、そこは気になる。

 

 この作品でとても気になったのは、ソーが最後に「聖なる童貞の父」になることだ。「聖なる童貞の父」というのは私が勝手に作った概念で、『ジェミニマン』とか『ターミネーター:ニュー・フェイト』に出てくる、性交渉を介さず父親になる男性のことで、最近けっこう英語圏のアクション映画によく出てくると思う。ソーは別に童貞ではないのだが、最後に性交渉を介さない神聖なやり方で父親になり、戦士たる娘を育てるシングルファーザーになる。ソーと娘は血がつながっていないのだが、父娘の絆はジェーンとの深い愛の誓いによって守られるものであり、ソーの慈悲深さ、高潔さによって生まれたものであることが示唆されている。こういう清らかなお父さんみたいなキャラクターを最近のアクション映画が好んでいるのは、何か新しい男らしさに関する流行りの表現なんだろうか…

 

 本作の子どもの描き方はけっこう難しい。この作品ではソーの娘もニュー・アスガルドの子どもたちもみんな戦う。子どもを戦わせるとか見ていて居心地悪いと思いつつ、なんか10歳の子どもの全能感を満開にしたみたいな展開ではあるなとも思う…のだが、私が深読みしたいのはこれがニュージーランドマオリの監督が作ったかつての植民地オーストラリアの映画だということだ(撮影はだいたいオーストラリアでやっているし、クリス・ヘムズワースを含めてオーストラリアの役者もたくさん出演している)。ニュー・アスガルドの描写はコミカルなようでけっこうキツいところがあり、戦災に追われて自国に住めなくなった難民であるアスガルドの人たちは、自分たちの伝統文化や苦難の歴史を芝居や観光ツアーなどに加工し、切り売りして暮らしている。これは世界各地で先住民や、場合によっては難民が生きのびるためにやっていることで、意外とリアルである。こういうこともあり、アスガルドの子どもたちが連れ去られるところでは、私はちょっとオーストラリアの先住民の子どもたちの連れ去り問題(いわゆる「盗まれた世代」問題と言われるもので、先住民の子どもたちが家庭から引き離されて白人に強制同化させられた)を連想してしまった。こういう南太平洋の先住民をめぐる話を覚えていると、終盤の展開は単に子どもを戦わせてひどいじゃないか…みたいなことでは片付けられず、悪党に無理矢理連れ去られた子どもたちがおもちゃを武器にしてでも反撃できていればなぁ…みたいな願望もあるのかなと思ってしまう。これはちょっと深読みにすぎるのかもしれないが、戦う子どもの表象という点では実はこの映画は10歳児の幻想のように見えてけっこう複雑なのかもしれない。