動きの制限から祝祭へ~『令和X年のオセロー』

 吉村元希作・演出、戯曲組『令和X年のオセロー』を見てきた。90分くらいに刈り込んだ『オセロー』の翻案である。シンプルなセットに現代風の衣装で(ただし女性陣はコルセットみたいなものをつけている)、かなりデズデモーナ中心の構成にし、ビアンカ周りの話などはカットされている。

 デズデモーナ中心で『オセロー』を…というと、アン=マリー・マクドナルドのGoodnight Desdemona (Good Morning Juliet) (1988)、ポーラ・ヴォーゲルDesdemona: A Play about a Handkerchief (1993)、トニ・モリスンの『デズデモーナ』(2011)などの先例があるのだが、この作品はむしろ戯曲組が前にやった『エアスイミング』に近い印象を受けた。コルセットやらバレエシューズみたいな衣類から人間関係まで、さまざまな要因で動きを封じられがちな女性たちがあまり出口のない状況で抵抗の隙間を探すというようなところに共通点がある。最後にデズデモーナがなんと息を吹き返してしまってからは、それまでの静かな抵抗の芝居から免罪符が飛び散るちょっとした無礼講の祝祭みたいな感じになる。

 『オセロー』は通常の上演でも翻案でも、デズデモーナ(吉村元希)とエミリア(中山侑子)の関係をどうするかが大事になってくる。トニ・モリスンの『デズデモーナ』みたいに主人と召使いの厳然たる階級区別に基づく関係にすることもあれば、立派な貴婦人にお仕えして仕事に誇りを持っているエミリアと女性上司みたいに描くこともあると思うのだが(ニコラス・ハイトナー版エミリアが軍属でボディガード兼アシスタントみたいな感じになっており、これに近かったと思う)、この公演のデズデモーナとエミリアは完全に対等な友人である。エミリアはデズデモーナのことをいろいろ思っているのだが、人生の中で間違ったアドバイスをしてしまうこともあり、最後はそのあたりの後悔も描かれている。わりと抽象的・象徴的なストーリー展開だが、このあたりの女性同士の人間関係の描き方はリアルだと思う。