火と水の衝突と和合~『RRR』(ネタバレ)

 S・S・ラージャマウリ監督の新作『RRR』を見てきた。

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 地方の少数民族であるゴーンド人のコミュニティから幼い少女マッリ(トウィンクル・シャルマ)が無理矢理インド総督夫妻に連れ去られ、コミュニティのリーダーであるコムラム・ビーム(NTR Jr.)はマッリ救出のためデリーに向かう。一方、デリーではインド解放を目指す運動家でありつつ、正体を隠して警察に潜入しているラーマ(ラーム・チャラン)が、総督襲撃を企むゴーンド人の活動家がいるという知らせを受け、調査に乗り出していた。ビームとラーマは互いの正体をよく知らないまま知り合うことになり、親友になるが…

 ド迫力のアクションにプロムみたいなダンスバトルまで、とにかく休むところもない息もつかせぬ娯楽映画である。コムラム・ビームと、ラーマにあたるアッルーリ・シーターラーマ・ラージュは実在の革命家なのだが、おそらく史実には全然基づいていない…というか、基本的に本作はスーパーヒーロー映画に近く、そもそもこんなことを人間ができるわけはないというようなことを2人がたくさんやるので、まあフィクションである。ただ、2人の経歴があまりよくわかっていない時期に舞台を設定しているらしいので、その点ではチョーサーの経歴不明時代をネタにした『ロック・ユー!』とかと同じようなオルタナティヴ歴史ものとして見ればいいのだろうと思う。

 全体として、インドの大地を解放するためには、相容れないものと見なされているが万物の源である火(ラーマ)と水(ビーム)が和合する必要がある、ということを描いている。ご丁寧にセクションタイトルで2人の属性が火と水であることが説明される上、オネスト・トレイラーで言われているくらいラーマにはしょっちゅう火で熱くなっている描写があり、ビームは水で湿っている描写があるので、この象徴性は誰にでもわかるものになっている。休憩(日本版では無いのだが)の直前にはラーマとビームの腕がラーマは火の赤、ビームは水の青でマークされるショットまであり、かなりしつこく2人の属性を視覚的にわかりやすく見せようとしている。

 ラーマは勇敢な反英運動家である父に育てられ、子どもの時から優秀だったのだが、イギリスの残虐行為のおかげで家族を失い、死ぬ間際の父と立てた誓いを守るべく、一心不乱に潜入活動に励んでいる。この情熱的で優れているがある意味では柔軟性の無いラーマの特質は、人間にとってなくてはならないものだが全てを燃やしてしまう危険性のある火と密接に結びついている。一方でビームは穏やかなゴーンド人のコミュニティリーダーであり、強い人物だが家族やコミュニティを気遣う優しさがある。こうした柔軟性の内に秘められた強さは水と結びつけられる属性である。

 こうしたラーマとビームが、川の上での蒸気機関車事故というまさに水と火が起こしたトラブルで出会い、協力して人命救助を行うことで結びつく。この場面ではラーマが水で濡らした旗をビームに投げ、ビームがその濡れた旗で火から身を守るということで、双方が相手の属性に接近することで調和が取り戻される。こうして2人が友情を育む中で、ラビームはラーマの火的な情熱によって流れの方向性をつけてもらうような形で助けてもらい、ラーマはビームを見て水的な柔軟な戦い方を身につける。ビームは水属性なので、非常に強いが流れをつけてくれる人が必要であり、ビームの恋路にラーマが助け船を出すのはそうした流れをつける助力だ。一方でビームの流麗な歌からラーマが武器一辺倒でない戦い方を学ぶのは、ラーマがビームの水的属性によって知恵を授かったことを示している(ここでかなりビームの血が流れて大地に滴るのは、血が火の赤さと水の液性を有するものだからであり、2人の属性の衝突と融合が血を介して表現されているのだと思う)。こうして一見したところでは対極にある火と水が和合し、万物の源が調和することによってインドの大地は解放へ向かう。

 現代史をナショナリズム的に描いた映画としては非常に神話的というか、わかりやすく普遍的なおとぎ話のような要素を持った作品である。ただ、まあこういうことをまったく考えなくても楽しめる映画ではある。そしてビームが少数民族だったり、火と水という異なる者同士の調和を強調したりしているにもかかわらず、あまりそういうことに興味がなさそうなヒンドゥー原理主義者とかに好かれそうな作品なのはちょっと悲しいことである(作り手にはあまりそういう意図がなさそうなのに妙な客層に好かれそうな映画というのはたくさんあり、『マトリックス』もそうだし、たぶん『クワイエット・プレイス』とか『ソウルフル・ワールド』とかもそうだと思う)。

 そういうわけで、主人公2人の神話的とも言えるブロマンスは大変面白いのだが、一方で他のキャラクターは薄めだ。ビームとラーマ以外に記憶に残りそうなキャラクターはラーマのお父さんくらいである。イギリス人が残虐なのはいいのだが、総督夫妻はただサディスティックなだけでイギリスの政治家らしく陰険な陰謀や策略を企む素質がなさそうなので、悪役としてはとくに面白くはない。女性陣は『バーフバリ』に比べるとかなり描き方が浅く、主人公2人の女性とのロマンスはなくてもいい程度の薄っぺらさだ。とくにラーマの許嫁であるシータ(アーリヤー・バット)は、映画全体の構成からしても許嫁じゃなくて小さな妹とか弟にしたほうが良かったのでは…という気がする。この作品は全体的に、インドの未来を担う子どもは大切にすべきであり、ヒーローの責務は年少者を守ることだという点を強調していて、ビームが街に出てくる理由も、ビームとラーマが出会うきっかけも子どもの救出である。それなら最後にビームがラーマ救出を決める時も、ラーマの小さい弟妹にお兄さんを返そうと…みたいな動機にしたほうがすっきりするのじゃないかと思うのだが、なぜかここが強引なロマンス推しになってしまっている。

 なお、虎に食われるイギリス人というのはインドでもイギリスでも有名なイメージで、この映画でも虎が対イギリス戦で大活躍する。ヴィクトリア&アルバート美術館にはイギリスの青年が虎に食われるところを模した有名な音が鳴るおもちゃがある。これは18世紀の末に実際にイギリス人が虎に食われてしまったことをヒントにティプー・スルターンが作らせて所有していたものなのだが、イギリスがインドにやっていた植民地支配を考えるとまあこういう美術品がインドで好まれたのは理解できることだ。もちろん虎はインドを象徴している。

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