真空の中にいるまんまるの牛についての映画~『TAR/ター』(試写、ネタバレ注意)

 トッド・フィールド監督の『TAR/ター』を試写で見てきた。

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 リディア・ター(ケイト・ブランシェット)は女性指揮者としてクラシック界ではめったにないほどの大成功をおさめていた。レズビアンのターは妻シャロン(ニーナ・シャロン)とかわいい養女もおり、家庭生活も円満に見えた。しかしながらターがかつて教えていたクリスタという若い女性指揮者が自殺し、ターによるハラスメントが関連しているのではないかという告発が出てくる。

 全体としては、音の使い方とか時間のモチーフなどに非常に気を配って作られた作品である。オーケストラの演奏からリディアが日常で悩まされる音まで、サウンドの作りが非常に行き届いている。また、最初にリディアがトークイベントで、指揮者にとってはテンポ、つまり時間のコントロールが大事だ…みたいな話をずっとしていて、これは一体何につながるんだ…と?思ったら、指揮者として時間を完全に制御していたリディアがだんだん時間をコントロールできなくなることで人生が崩れていく様子を見せるといううまい構成になっている。隣家のトラブルのせいでレッスン時間に間に合うように着替えられなくなったり、話したことが文脈を無視して短く編集された動画でネットにあげられてしまったり、継続的な長い時間(クラシックの大曲)をコントロールしていたリディアが、現代的な短いぶつ切りの時間に浸食されて人生が崩れていく。中盤まではけっこうじっくりした編集なのに、終盤、リディアの人生が暗転してからはやたら展開が早くなるのもそういうことだと思う。

 一方でかなり脚本は強引である。序盤からやや「ん?」と思うところはあり、たとえば途中で出てくるジュリアードの授業の場面について、あんなにステレオタイプにアホっぽくマイノリティカードを切る学生、ほんとにいるかな…と思ってしまった(あれも全部仕込みだと考えればいいのだろうが、学生はターの質問に応えて変な回答をしているので仕込みではなかろう)。前に『ラストナイト・イン・ソーホー』を見た時もそう思ったのだが、なんか映画ってアートスクールで映画以外のことを学んでいる学生に対して解像度が低くなりがちでは…と思う。ちなみにこの授業場面でのバッハは性差別的な時代に生きた白人の作曲家だから嫌いです、という学生に対するリディアの対応はいろいろ問題があり、個人的にはあそこで教師として適切と言えそうな対応のひとつは「チャイコスフキーは好きですか?」という質問をすることではないかと思う(他にも適切な指導方法はあるだろうが)。

 終盤は全体的に脚本が破綻していると言えるくらい強引で、序盤とは違う映画かと思うようなトーンになる。最後にフィリピン(映画の中で言及されている『地獄の黙示録』はここで撮影された)をエクスマキナみたいに出してくるのは、私は極めて気に入らなかった。指揮者が落ちぶれて行くのがアジア…というのはアジアの他者化だし、とくに売春宿の場面は現地の人をエキゾティックなモノ化している。さらにゲームファン(モンハンらしい)のイベントの描き方についても、一応ファンダム研究をしている者としてはちょっと偏見があるように思った。終わり方がちょっと『フォックスキャッチャー』っぽいのだが、『フォックスキャッチャー』よりも対象となるアジアやゲームコミュニティをネタ扱いしてると思う。

 そして私が一番気になったのは、この作品の迫力というのはジェンダーポリティックスに全く注意を払わないことから来ていて、その点ではジェンダーポリティックスがほぼゼロのユートピアを舞台にしたファンタジー映画だ、ということだ。描写がリアルすぎて事実の映画化と勘違いした人がいたとかいう話だが、正直、私はこの映画が全然リアルに思えなかった。なぜかというと、とくに終盤のリディアの振る舞い方が、自力であの地位にのぼり詰めた女性としてはありえないくらい政治(人間関係の操作という意味の政治工作)ができないからだ。そもそも女性でベルリンフィルクラスの有名楽団の指揮者になれる人なんかほとんどいないわけで、今のような世界でそのような地位につける人がいるとしたらたぶん音楽の才能だけでは無理で、政治ができないといけないと思う。良い意味でも悪い意味でも、あれだけの地位にある女性ならもっと狡猾に振る舞うだろうと思う。

 まず、同性愛者の女性であんなに著名なら、これまでもネットで容姿やら性的指向やらについて中傷されてそれが噂になったことがあるだろうから、ネットに何か流出してヤバいことになっているというのにそれを妻に打ち明けないというのは考えにくい。友達、とくに女友達を通じたネットワークですぐバレるに決まっているんだから、親しい人には先に伝えて支援をあおがないといけないということがわかっているはずだ。また、おろされた後に演奏会場に乱入して指揮者を殴るようなことも考えにくい…というか、女性でああいうふうに衝動的に手が出る人は少ないし(だから『ミス・ダイナマイト』が面白いわけだが)、暴力に訴える前に支援してくれそうな人間を使って何らかの工作をやるだろうと思う。

 そもそもこの映画はもともと男性が主人公の予定だったそうで、おそらくこのあたりの脚本をあんまり変えていないのではないかと思う(最初にとってつけたように出てくる指揮者に対する性差別のところは追加だろう)。ひょっとすると男性はこういうふうに才能と芸術面の努力と周囲のサポートだけで、政治ができなくてもベルリンフィルクラスの楽団の指揮者になれるのかもしれないが、現状では女性にはそういうふうにナイーヴなまま出世することはほとんど許されていないのではないかと思う。この映画は現職の女性指揮者から批判されたらしいのだが、たぶんそれはこの映画が全然リアルじゃないからではないかと思う(実際の女性芸術家から不評だったという点ではちょっと『ブラック・スワン』を思い出すところがある)。そういう点で、この作品はジェンダーポリティックスに起因する問題が無いとしたら権力を持った女性がどう振る舞うか、ということを描いていて、映画じたいの出来とは別として、ある種の思考実験、真空の中にいるまんまるの牛みたいな非現実的な条件で作られた話である。

 なお、これは小さいことなのだが、少なくとも試写の段階での日本語字幕はあんまりよくないと思う。序盤の携帯電話の日本語字幕について、もとの英語はあんまりジェンダーがよくわからないのだが、日本語字幕は女言葉になっているので字幕から性別が推測できてしまう(これはちょっとスリリングさを減らしていると思う)。さらに女性指揮者のentrepreneurshipについてのセリフが「起業家精神」と訳されていたのだが、指揮者が起業するのはおかしいし、entrepreneurshipというのはもうちょっと意味が広い、リスクをとって新しいことを始めるのを厭わないやる気みたいなものなので、「開拓心」とか「挑戦的な精神」みたいなほうの意味だと思う。