ファンタジーっぽくデフォルメされているが、扱っている話題は深刻~ミュージカル『マチルダ』

 シアターオーブでミュージカル『マチルダ』を見てきた。ロアルド・ダールの原作のミュージカル化で、デニス・ケリー脚本、ティム・ミンチン作詞作曲、マシュー・ウォーチャス脚色・演出の作品である。もともとはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが上演し、映画化もされている。

 ヒロインのマチルダ(三上野乃花)は才能豊かな女の子だが、男の子を欲しがっていた両親は全くマチルダを理解せず、兄ばかりを依怙贔屓して本好きな娘をバカにしている。自宅に本がないマチルダは、図書館で司書のフェルプスさん(岡まゆみ)にお話をするのがちょっとした息抜きだった。マチルダは学校に行くことになるが、この学校の校長であるトランチブル先生(大貫勇輔)は子どもたちを虐待しており、学校は地獄のような有様だった。一方で教育熱心なハニー先生(咲妃みゆ)はマチルダの才能を認め、優しくしてくれる。マチルダは持ち前の機転でトランチブル先生や両親に立ち向かおうとするが…

 アルファベットなどをあしらったカラフルでごちゃごちゃしたいかにも子どもの空間らしい(それも本好きな子どもの空間らしい)セットが基本なのだが、一方で学校の場面はあまり色みがなく、陰鬱な感じになっている。マチルダの部屋のセットはこじんまりとしていて可愛らしく、後ろに図書館の本が並んでいる。体育の授業の場面ではけっこうアクションもあるし、マチルダの超能力が発現する場面ではチョークが勝手に字を書くなど、特殊効果もある。才能豊かな少女マチルダが苦境を抜け出すまでを描いている基本の筋は原作に近いのだが、舞台版はだいぶ派手な脚色がある。

 『マチルダ』は超能力が出てきたり、トランチブル校長がちょっとあり得ないくらいあくどかったり、ファンタジーらしくデフォルメされたお話なのだが、ひとつひとつに要素を見てみると、子どもが現実の生活で直面する極めて厳しく、しかもあまりみんな語りたがらないような問題を扱っている。マチルダの両親であるワームウッド夫妻は娘を全く愛しておらず、息子のほうを贔屓していてマチルダに対してはネグレクトしている。賢いマチルダが、外では両親が自分に優しくしてくれているようなフリをしていて適切な助けを求められないという状況はけっこうグロテスクだし、かつリアルでもある(被虐待児は親を庇うこともあるし、親が優しかったらなぁ…と想像してそういうフリをすることもあるだろう)。イギリス文学にはこういう「親は子どもを愛さないことがある」「親は子どもを依怙贔屓することもある」というようなあまり人が話したがらないものの厳然と存在する事実を明確に指摘する作品がいくつかあるのだが(一番有名なのはたぶんジェーン・オースティン)、『マチルダ』は子ども向けのお話でそれを扱っているというのがポイントだ。お父さん(斎藤司)が娘のことをやたらと息子扱いしているのは、現代の文脈だとトランスやノンバイナリの子どもに対するミスジェンダリングの文脈でも読めるので、(そういう意図はなくとも)性的マイノリティの子どもに対する親の無理解を連想させる描写とも言える。さらにそういう親はさっさと見切りをつけたほうがいいという一歩踏み込んだ指摘をこの作品はしている。家族に呪縛されて迷惑を被る子どもも多いことを考えると、ひょっとすると親子の絆をストレートに描いた児童文学よりもこういう作品のほうが子どもにとっては人生の助けになるんじゃないかと思える。

 一方でハニー先生はとても教育熱心で良い先生なのだが、それでもマチルダを贔屓している。ただし他の子全員に対しても教育熱心で、誰かを軽視することはしていないし、マチルダは被虐待児で特別な支援が必要とも言えるので、教員として別に問題があるわけではない。「良い先生はみんなを平等に扱う」みたいな幻想にはとらわれておらず、「良い教員でも生徒を贔屓することがある」ということも厳然たる事実として描いているのもこの作品のいいところなのではないかと思う。人間はみんなを平等に愛せるわけではないが、愛せない相手を軽視することと、愛している相手に特別に心を配るのは別のことだ(愛している相手に心を配るとしても、日常生活でかかわりあいになる他の人間を軽蔑してよいわけではない)。この作品はワームウッド夫妻の贔屓とハニー先生の贔屓を通して、そのあたりの微妙な人情の機微を描いていると言える。

 学校の描き方もわりと面白い。教育経験のないトランチブル校長が経営する学校はとても学校とは言えないような悲惨な状況だが、それでもマチルダは学校に行ってハニー先生と会うことにより、人生の道が開けた。ここには、教育は本来、虐待されている子とか才能を認められていない子を助けるためにあるものだが、素養のないトップが教育を管理しているとそういう機能が働かなくなってしまうということを示唆している。トランチブル校長は極端にデフォルメされていてコミカルだが、トランチブル校長の縮小版みたいなのは学校行政の世界にいないわけではないし、そういうのはさっさと追っ払ったほうがいいということを示唆していると思う。