リア王はど迫力だが…『荒野のリア』

 吉祥寺シアターでティーファクトリー『荒野のリア』を見てきた。構成・演出が川村毅麿赤兒がリアである。『リア王』をリアの狂気を中心に再構成したものである。

 シンプルなセットで、背景にスクリーンがあってプロジェクションができるようになっている。ここに場面ごとにいろいろなものが投影され、途中でグロスターが目をえぐられるところとかはこのスクリーンにサイレント映画タッチの映像を映すことで語られる。不要な場面ではスクリーンが上に巻き上げられる。

 とにかく麿赤兒のリアがど迫力で、女装になったり、子どものようになったり、リアの狂気を全身で見せる。一方、この演出はグロスターやケントがかなり若く、麿赤兒に比べると全員若者みたいな感じで、ちょっと釣り合いがとれないのでは…と思ってしまうところがあった。ただ、ほとんど聞き取れないレベルの東北弁?で田舎の人を装うエドガー(中村崇)という演出は良かった。プロジェクションはだいたい効果的に使われていたと思うのだが、ゴネリルとリーガンの残酷な発言にグラマーガールのピンナップが投影されるのはなんらかのミソジニーの表出なのか(そうだとしたら全然機能してないと思うのだが)、ちょっと何をしたいのかよくわからなかった。

 あと、根本的に私はこういうリアの狂気とひたすら対峙するみたいな芝居があまり好きでは無いというところがある。以前に渡辺美佐子の『リア』を見た時もそう思ったのだが、私はどうも政治的としての『リア王』が好きなので、狂気を前面に押し出して役者の力量を見せるよりは人間関係の複雑さとか政治的な泥沼とかにもう少し焦点をあてた演出が好きだ。こういうものが好きだという人の気持ちはまあわかるのだが、私向きの紅茶じゃない。