11/6に東京ウィメンズプラザにてウィキギャップイベントを行います

 11月5日~6日に行われる東京ウィメンズプラザフォーラムにて、ウィキギャップイベント(女性人物記事を編集するイベント)を組織することになりました。11月6日(日)の9:30より、少人数で行います。参加ご希望の方は必ずこちらから事前登録してください。初心者向けになる予定です。

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「2010年以降の日本/日本語のシェイクスピア上演を問う」セミナーが終わりました

 シェイクスピア学会の「2010年以降の日本/日本語のシェイクスピア上演を問う」セミナーが無事終了しました。お越しくださった皆様、どうもありがとうございます。どの発表も面白く、質疑応答も盛り上がって、バランスの良いセミナーになったと思います。私の「若く美しく商業主義的な日本のアイドルシェイクスピア」の発表については、「そもそもアイドルシェイクスピア上演について情報が伝わってこない」「やっているのは知っていたがチケットがとれない」という方が多いようだったので、せめて東京グローブ座でやる上演はソフトを出して欲しいと思っています。

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「ロバート・キャパ セレクト展:もうひとつの顔」

 神戸ファッション美術館で「ロバート・キャパ セレクト展:もうひとつの顔」を見てきた。戦争写真はもちろん、著名人を撮ったものとか日本の仏像を撮ったものなどもある。また、コレクション展の「フランス文学が誘う街とファッション-19世紀後期から20世紀へ-」も開催中で、プルーストの時代のパリのドレスを見ることができる。

子どものクィア時間と、母親の救い~『秘密の森の、その向こう』(ネタバレあり)

 セリーヌ・シアマ監督の新作『秘密の森の、その向こう』を見てきた。

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 お話は8歳のネリー(ジョゼフィーヌ・サンス)のおばあちゃんが亡くなった直後から始まる。ネリーはお母さん(ニナ・ミュリス)とお父さん(ステファン・ヴァルペンヌ)と一緒に、森にあるおばあちゃんの家の片付けに行くところになる。ところがお母さんは自分の母親を亡くした後に片付けをするのがキツすぎたのか、急にいなくなってしまう。お父さんと2人になったネリーは、森で自分と同じ年の少女マリオン(ガブリエル・サンス)に出会う。

 途中まではあまりピンと来なかったのだが、途中から『となりのトトロ』と『ザ・デッド ダブリン市民より』とチャールズ・L・ハーネスの「時の娘」を合わせたみたいな時間SFになる。シアマは『燃ゆる女の肖像』のようなジェンダーセクシュアリティに関する作品が得意な監督で、この作品は子どもを扱っていて、撮り方などはわりと前の作品でやはり子どもを扱った『トムボーイ』に似ている。ただ、『トムボーイ』と違って本作はジェンダーセクシュアリティに関するクィアな主題を直接的に扱っているわけではない。しかしながら、母親の失踪をきっかけに時間がねじれて主人公が子どもだった頃の母親に合うというのは、女性同士のつながりをテーマに逸脱を描いているという点で、時間をとてもクィアに扱った作品だと言えると思う。ネリーは喪失をきっかけに時間をはみ出し、母親と通常ではあり得ないような形で知り合うことになった。ここでネリーが与えられた3日間のねじれた時空は、子どもの無限の可能性を秘めたクィアな時間だ(子どもの時空の扱い方という点では、ちょっと『君の名は。』を思い出した)。

 この作品のヒロインはネリーだが、一方で母親であるマリオンにとっての救いの物語だとも言えると思う。マリオンが自分の母親の家を片付けられず、小さな子どもを放置して出て行ってしまったというのは、娘としては無理もないことだが、母親としては無責任なことで、たぶんマリオンはこれについて人知れず悩んでしまったかもしれないと思う。ところが、マリオンがいない間、ネリーは実は子ども時代のマリオンと出会い、別の形で母親と一緒にかけがえのない時間を過ごしていた。そう考えると、ネリーが過去のマリオンと出会ったのは、実は消えた大人のマリオンが娘を心配していた気持ち、あるいはそんなマリオンを重荷を軽減しようとした亡きマリオンの母の気持ちのあらわれなのかもしれない。

 

 

わりとオーソドックスなテネシー・ウィリアムズ~『ガラスの動物園』

 新国立劇場でイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出『ガラスの動物園』を見た。イザベル・ユペールがアマンダ役という豪華なプロダクションである。劇場もほぼ満席だった。

 セットは全体にけばのあるふわっとした茶色い生地で覆われた長方形の部屋である。後ろの壁には出て行ったお父さんの肖像のかわりに、けばで作った父親の顔が描いてある。衣服やセットはモダンで、オリジナルの設定である1930年代よりだいぶ新しい感じがする。

 長方形の部屋で展開する家庭劇という点では『ヘッダ・ガーブレル』などと共通性があり、空間の使い方はかなりイヴォ・ヴァン・ホーヴェらしいのだが、一方で思ったよりもだいぶ正統派なテネシー・ウィリアムズである。役者の演技をじっくり見せる比較的オーソドックスな演出だ。やはりイザベル・ユペール演じるアマンダは絶品で、私が今までに見た『ガラスの動物園』に比べるとわりと地に足のついた女性に見える…というか、単に南部の思い出だけに浸っている生活力のない女性という感じではなく、けっこうやる気を持って生きているし、その気になれば再婚できるくらいの甲斐性はあるのだが、出て行った夫への未練たらしい愛情がまだあるせいでそういうこともできずに行き詰まってしまっている中年女性という印象を受けた。気を遣っているわりに時々とんでもないダメなことをする母親で、子どもたちに対する態度もそうだし、黒人男性である颯爽としたジム(シリル・ゲイユ)の前で南部のプランテーションを懐かしむ話をするところとか、無神経すぎて見ていて大変にきまりが悪かった(これはキャスティングの妙だと思う)。目に見える身体的な障害のほうはあまりないのだが、おそらくメンタルな障害(私と同じで発達障害なのかな?)があると思われるローラ(ジュスティーヌ・バシュレ)も、繊細そうなトム(アントワーヌ・レナール)も演技は良く、ユペールは凄いがユペールだけに偏らない、バランスのとれたアンサンブルである。

 途中でジムとローラが踊りまくる場面は、わりと正統派なこのプロダクションの中ではかなりイヴォイヴォしい場面だったと思う。正直、こんな激しいダンスをすると思っていなかったので、新鮮だった。2人の抑圧された性的エネルギーが解放されるようなこのダンスの場面でユニコーンの角が折れてしまうというのは、実はかなりエロティック…というか、これまで障害のある大人しい女性として暮らしていたローラの押さえつけていた性欲が全開になっていることを示唆しているんだろうと思う。

なんとなく「田舎って怖いなぁ」感が…『LAMB ラム』(ネタバレあり)

 ヴァルディミール・ヨハンソン監督の『LAMB ラム』を見てきた。アイスランドが舞台のフォークホラー映画で、脚本に有名な作家のショーンがかかわっている。

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 舞台はアイスランドの人里離れた山奥の牧場である。マリア(ノオミ・ラパス)とイングヴァル(ヒルミル・スナイル・グドゥナソン)の夫妻は羊を飼って暮らしているが、ある日、羊のうちの一頭が顔が羊、体の大部分が人間(手は片方羊)の生き物を産む。以前、我が子を亡くしたことのある夫妻はこの羊の子にアダという名前をつけて可愛がるようになるが、そこにイングヴァルの弟ペートゥル(ビョルン・フリーヌル・ハラルドソン)が訪ねてくる。

 極めてセリフが少なく、全体的に撮り方はちょっとドグマ95っぽい比較的私が苦手なやつ(道を歩くとちょっとカメラが揺れたりする)だな…と思っていたら、監督は私が大嫌いなラース・フォン・トリアーが好きらしい。ベルイマンを思わせるところもあるし、また、『ビョークの「ネズの木」~ グリム童話より』とかにもちょっと雰囲気が似ている。一応超自然が介入するフォークホラーである。

 いろいろ謎めいた魅力はある映画だが、全体的に「田舎って怖いなぁ」みたいな感じをやたら強調しているような印象を受け、あまり面白いと思えなかった。まず、マリアとイングヴァルがやっている牧畜・農業にリアリティが無い…というか、この2人はいったいどこで作物や羊毛や羊肉を換金しているんだ…とか、どうやって灯油などの物資を入手してるんだ…みたいなことが全然わからない。他の人と会う場面がほとんどないのはもちろん、電話とかネットとかで同業者や取引先に連絡をとるみたいな描写もあんまりないし、農業とたまにサッカーを見る以外にこの夫妻はいったいどういう趣味があるのかとかいうようなこともわからない(アイスランドは世界一ネットが普及しているはずだし、人口の9割以上は広義の都市部に住んでいるはずなのだが…)。この2人を隔絶させるためにあえて現代農業の社会的な側面を無視しているのだと思うのだが、そこがどうも田舎の孤立っぷりを過剰に強調しているように思える。こんなド田舎で隔絶されたところで暮らしてるから羊人間が生まれたり、羊人間を人間のように育てたりするおかしな夫婦が出るんですよ!という話のように見え、田舎育ちの人間としてはあんまり良いイメージを持てなかった。

 また、最後に出てくる羊人間のボスが黒っぽくてバフォメットみたいな見た目である一方、子どものアダは白くて可愛らしく、幼子イエス(何しろマリアの息子である)みたいなのも陳腐だなーと思った。半人半獣のアダがけっこう人間社会に適応して生きているので、なんか障害があったり、海外にルーツがあったりするような子どもが地元に適応するポジティヴな話みたいな描き方もできそうなのに、そうならずにどんどん超自然ホラーになっていくのはずいぶんと気が滅入る展開だと思った。全く個人的な感想なのだが、なんとなく人種混交に対する恐怖みたいなものをこの映画から感じてしまった。

 また、これはちょっと私が牧羊産業が盛んなところで育ったので偏見がありすぎるのかもしれないが、マリアが母羊を殺したところで食わずに埋めるのはずいぶんな資源の無駄遣いだと思った。立派な羊を育てるのはけっこうなコストがかかるし、あんなに都市から離れたところでは物資は貴重だろうに、もったいないなと思ってしまった(マリアがそんだけ切羽詰まっていて母羊殺しを隠したかったのだろうとは思うが)。よく考えて見ると、子どもをとられた母羊が人間を恨むみたいなのもちょっと人間中心的、母性中心的な考え方ではないかとも思う。

11月3日に猫町倶楽部で新刊の読書会があります

 11月3日(木)14:30 〜 18:00に、猫町倶楽部にて『お嬢さんと嘘と男たちのデス・ロード ジェンダーフェミニズム批評入門』のオンライン読書会が行われることになりました。著者トークもある予定です。お気軽にご参加下さい。

nekomachi-club.com