今回の連載はシンデレラについてです

 今回の連載では「ディズニーに乗っ取られたシンデレラ~民話の変貌をたどる」と題して、ディズニーが商業化してしまう前のシンデレラには豊かな民話の伝統があったという話をしています。

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 私は大学で民話研究の授業をとるまでディズニーの『シンデレラ』を見たことがなくて、先にジャンバティスタ・バジーレの『ペンタメローネ』(グロテスクだけど超面白い)を読んでからディズニーアニメを見たので、映画があまりにもたるくてびっくりした覚えがあります。

ペンタメローネ (上) 五日物語 (ちくま文庫)
ジャンバティスタ・バジーレ 三宅 忠明
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犯罪にかかわらずに生きていけない場所における、男らしさの問題~『キックス』

 『キックス』を見た。

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 カリフォルニアのリッチモンドに住んでいる15歳の少年ブランドン(ジャキング・ギロリー)は治安の悪い地域に住んでおり、お金もなく、学校でもパッとしない暮らしをしている。どうしても欲しかったエアジョーダンのスニーカー(キックス)をお金をためて買うが、すぐにギャングにカツアゲされて奪われてしまう。スニーカーを取り戻すため、ギャングと対決しようとするブランドンだが…

 

 これだけだとコメディにもシリアスなフッド映画にもなりそうなあらすじだが、全体的にはフッド映画+高校生の成長ものである。ブランドンにはイケているリコ(クリストファー・マイヤー)と音楽好きのアルバート(クリストファー・ジョーダン・ウォーレス)という友達がいるのだが、その中でもブランドンが一番、小柄で見た目が幼い。3人ともテキトーに遊んでいて、万引きなんかはけっこうするのだが、ドラッグの売買とか殺人などは恐れて手を出さない、つまりちょっと不良気味だがワルというわけではないような連中だ。一方でブランドンからスニーカーを奪うフラコ(コフィ・シリボエ)たちは武器を持ち歩いている札付きのワルである。別にブランドンはフラコなんかにかかわりたくないのだが、歩いているだけでカツアゲされるような治安の悪い地域に住んでいるし、親戚に犯罪者もいるし、犯罪から身を遠ざけて暮らすことが難しい。このあたりの描き分けが非常にきちんとしていて、ブランドンたちは別に悪い子ではなく、本気で悪いことをするつもりもないのだが、犯罪に全くかかわらずには生きられない環境で暮らさなければならない立場に追い込まれていることがわかる。

 

  そうしてのっぴきならない状況に追い込まれてしまったブランドンだが、ここで出てくるのが男らしさの問題だ。こういう危険な環境では、自分が一人前の男であることを証明するために暴力を使うという選択肢がとられることも多い。しかしながら、いったん暴力に走ればそのまま転がり落ちていくのは目に見えている。そこでまだ15歳のブランドンがどうやって暴力に対処する方法を身につけていくべきか…というのがこの作品のテーマだ。

 

 アフリカ系アメリカ人コミュニティにおける男らしさの概念をテーマにしているという点では『ムーンライト』によく似ているし、なんとマハーシャラ・アリがフアンをさらにワルくしたみたいな役で登場する。ただ、『ムーンライト』のほうがはるかに技法的に工夫がある一方、『キックス』はちょっとストレートすぎるきらいはある。アフリカ系アメリカ人コミュニティにおけるスニーカーの文化的重要性を劇映画としてうまく見せているところはちょっと新鮮かなと思った。

 

 なお、この作品はベクデル・テストはパスしない。女性同士で話すところには必ず男性がいて、会話にからんでくる。

クライマックスが大問題で頭を抱えた~タイプス『リア王』

 座・高円寺でタイプス『リア王』を見てきた。オールフィメールの上演である。

 

 オーソドックスな上演で、良いところはたくさんある。グロスターが崖から飛び降りようとするあたりのくだりなどは真に迫った描写とユーモアのバランスが良かったし、全体的に笑うところもたくさんあった。ただ、オールフィメールとしてはキャスティングと演出に圧倒的な問題があると思った。

 

 最初から、コーディーリアがずいぶん高身長だな…と思って見ていた。原作にはコーディーリアがかなり小さい女性であるらしい描写があるのだが、このプロダクションでは三姉妹の中で一番デカいくらいの身長だ。そうしたら、なんと最後の場面のリア王コーディーリアを腕に抱いて入ってくるという指定がある箇所で、このプロダクションのリア王は娘を担がずに出てくる。リアはコーディーリアの衣類を持ってくるだけだ。このコーディーリアを抱いて入ってくるというのは、リアが最後に残った力を振り絞って娘への愛を示し、体力を使い切って死んでしまうことを示すためのクライマックスなのだが、リア王役はふつう年をとった男優が演じるので、性別を問わず相当に負担のかかる場面だ。だからコーディーリアは小柄な女優が好まれるというのもあるし、衣装に仕掛けをするとか、裏方がこっそり手伝うとか、リアが入ってきた瞬間に周りの人物が駆け寄って助けるとか、いろいろな小細工が上演史上行われている。しかしながらこの上演ではそもそもコーディーリアを持ち上げて入ってくるのをやめてしまっている。これは視覚的インパクトの点で非常によろしくないし、やっぱり女優は力がないからリア王なんかできないとか言われてしまうことになりかねないので、オールフィメールとしては絶対にまずいと思う。なんで小細工を使ってでもコーディーリアを持ちあげるということをしなかったんだろう?そもそもなんでコーディーリアを小柄な女優に振らなかったんだろう?

 

 そして、コーディーリアを本人ではなく衣服にしたことで何か芸術的な効果があがっているかというと、全くあがっていないと思う。ここでリアが衣服を持って入ってくるのならば、衣服しかないのにまるでコーディーリアがそこにいるかのようにリアに話させることで、リアの狂気を示す必要があると思う。しかしながらこのプロダクションは、見たところ1623年のフォリオ版に近そうな小田島訳を使っているはずだがかなりカットしており、フォリオ版テクストよりは1608年のクォート版テクストに近くなっていて、リアが目の前のコーディーリアに語りかける台詞がずいぶんなくなっているので、狂気のすさまじさとかは全然感じられなくなっている。さらに最後にオールバニエドガーが言うことになっている締めの台詞もカットされていて、最後の場面のテキレジは相当ズタズタだ。

 

 他にもキャスティングや演出にはいろいろ問題があると思う。若い兄弟であるはずのエドガーとエドマンドをかなり老けた感じに作っているせいで、父親であるグロスターとの対比がわかりづらくなっているのは問題だ。エドマンドが老人の横暴に耐えかねて残虐な復讐を企むんだから、エドマンドはものすごく若くて生意気でないといけないし、エドガーも1年くらいしか違わない若い兄弟なんだから、この2人は若くてちゃきちゃきした感じに作らないといけないはずだ。それから、エドガーがオズワルドと戦うところで、原作ではオズワルドは舞台上で死ぬのだが、このプロダクションではなんだかわからないバカっぽい感じで舞台から出て行くのも良くないと思った。

 

感情の政治~NTライヴ『ジュリアス・シーザー』

 NTライヴの『ジュリアス・シーザー』を見てきた。『ヤング・マルクス』に続き、新しいブリッジ・シアターでの上演を撮影したものである。演出はニコラス・ハイトナーである。

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 とにかく面白いのは空間の使い方である。空間の使い方が非常にフレキシブルで、決まった舞台がない。一応座席部分はあるのだが、平土間は立ち見でそこに「市民」として観客を入れ、パフォーマンスは平土間やその上に立てた間に合わせの台のような舞台で展開される。観客はローマ市民として扱われ、パフォーマンスに合わせて移動もできる。ロックコンサートから始まる現代風の演出で、登場人物はスーツや政治スローガンの書かれたジャケットなどを着ている。しかしながら、こんなに自由に使える空間で上演されているのに、この芝居に出てくるローマの公共圏は人間が自由に動けるような場所ではない…ということがポイントで、登場人物は皆、自由を求めているにもかかわらず、政治や家族や友愛など、さまざまなしがらみにとらわれてがんじがらめになっている。

 

 主人公のブルータス(ベン・ウィショー)はものすごく知的で、そこは予想通りだったのだが、思ったよりかなり普段からイライラしていてコミュニケーションが下手な感じに作られていた。ベン・ウィショーが普段の優しい雰囲気を封印してピリピリした理想家で学究肌のブルータスを作り上げている。ポーシャと話すところなどもかなり自分の気持ちを伝えるのが下手そうな感じだ。一方でキャシアス(ミシェル・フェアリー)は女性、つまりブルータスの義理の兄弟ではなく義理の姉妹という設定なのだが、極めて実際的な女性である。キャシアスはふつう、やせっぽちでイライラしていて神経質な感じに作ることが多いと思うのだが、このキャシアスはむしろブルータスより肝が据わっている感じで、いかにも頼れるお姉さん然としている。キャシアスを女性にしたせいで、ふつう男性同士だと強調されるホモソーシャルというかむしろホモエロティックとも言ってよいような感じがなくなり、ブルータスとキャシアスの関係はかなり家族的で、実務家の姉と理想家の弟という感じだ。ユタシェイクスピア祭で見た『ヴェニスの商人』でも、男性同士でやるとホモエロティックな感じになるアントーニオとバサーニオの関係が、アントーニオを女優にするとなんだか家族的になるということがあったが、これはひょっとしてけっこういろいろなプロダクションに共通するポイントなのだろうか。

 

 このプロダクションは全体的に、感情の政治に関する物語だという印象を受けた。理屈っぽいブルータスも、結局はキャシアスとの家族的な感情にひきずられて暗殺に加担する。ブルータスがアントニー(デイヴィッド・モリッシー)より若いというのはちょっとびっくりしたのだが、この上演におけるアントニーはエリート的なブルータスに比べるとシーザーのどぶ板選挙キャンペーン叩き上げの政治家という感じで、政策的なところよりは感情的なところでシーザーを慕っているように見える。ポピュリスト的でカリスマ的なリーダーであるシーザー(デヴィッド・カルダー)は人を惹きつけ、感情を揺さぶることに長けた政治家だ。そんなシーザーが亡くなった後に、シーザーの養子である若くて小生意気なオクテーヴィアス・シーザー(キット・ヤング)がやって来るので、感情でシーザーとつながっていたアントニーとしてはあまり居心地が良くないわけである。この感情が政治を動かすというのは非常に現代的なテーマで、とても良いところをついていると思う。

 

 

もう一つの事実と命~『命売ります』(ネタバレあり)

 サンシャイン劇場で『命売ります』を見てきた。三島由紀夫の小説をノゾエ征爾が戯曲化・演出したものである。

 

 自殺に失敗した羽仁男(東啓介)が、生き延びたからどうせ要らない命だと「命売ります」という商売を始めたことから起こる、さまざまなドタバタ大騒動を描くものである。いろいろと危険な依頼が舞い込むのだがどういうわけだか命が助かってしまい、なかなか充実した人生を生きるようになってしまう。そんな羽仁男にもとうとう年貢の納め時かというような危険が降りかかるが…

 

 原作の展開や台詞などをかなり忠実に再現しているが、中盤で少し省略があるのと、また最後のニセ時限爆弾のくだりについては若干変更してある。また、自殺のくだりを詳しく説明するのが後半になってからで(冒頭ではほのめかしだけ)、時系列についてもちょっと操作があるが、別にわかりづらくはない。非常にエンタメらしい軽いタッチの作品で、二段になったステージにドアが並ぶちょっとカラフルなセットも昭和レトロでポップな感じだ。衣装にもかなり気をつけて昭和のおしゃれ感を出すような工夫がある。

 

 一見したところ軽い話なのだが、実はこれは『豊饒の海』とか『美しい星』など他の三島のもうちょっとアート志向な作品とつながっていて、いわゆる「もう一つの事実」(オルタナティヴ・ファクト)的なものを芸術的に探求した作品なのかもしれないと思う。「もう一つの事実」というのは、まあ政治的には嘘の婉曲語みたいに使われるわけだが、人によっては事実でないものを「もう一つの事実」として信じ込んでいることがある。この作品にはACSという誰も聞いたことのないような怪しい犯罪組織が出てきてこれが主人公の羽仁男を狙っているとかいう展開になるのだが、この組織の描き方がまるでギャグみたいで、意図的にわざとらしいステレオタイプな外国人の犯罪組織だ。まるで本当とは思えないのだが、主人公の羽仁男にとってはこの漫画みたいな犯罪組織に襲われたのが「事実」である。最近『豊饒の海』を見たからそう思うのかもしれないが、本多が最後に「そんな人いたんでしょうか?」と言われる『豊饒の海』と、羽仁男が命からがら警察に駆け込んだらACSなんてないんだよと言われる『命売ります』は、大変構造的に似ている気がする。どちらも、中心人物に見えている事実と他の人が見ている事実が違っていて、見ている我々は中心人物に共感するところもありつつ、むしろ中心人物のほうが陰謀論とか思い込み、本当らしい嘘にハマっているように見えることもある。この2作品に違いがあるとしたら、羽仁男は本多と違って自らいくつもの生を生きている人だということだろう。何度生きても結局妄想で片付けられてしまうというあたり、『命売ります』は『豊饒の海』より辛辣だと言えるかもしれない。

MIDWEEK BURLESQUE vol.64 The Year-end Fantastic Party

 「MIDWEEK BURLESQUE vol.64 The Year-end Fantastic Party」を見てきた。出演者はPrincipessa Elegante、鷹島姫乃、紫ベビードール、Violet Eva、てのひら、Andre the Syunだった。

 前半はAndre the Syunのボーイレスク、鷹島姫乃の和装でまるで歌舞伎の赤姫みたいなショー、Violet Evaのいつも通りゴージャスなショーで、後半はPrincipessa Eleganteのオトナな感じのショー、バルーンアートと歌をくみあわせたてのひらのショー、紫ベビードールのちょっとラス・メイヤーっぽいグループショーだった。てのひらさんのショーで私はなんと舞台上に呼ばれてバルーンで作った傘をもらったのだが、渋谷を歩いて持って帰ったところ、泥酔した通行人に「タケコプターですか?!」と聞かれた。傘だよ…研究室に飾ろうと思う。

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笑いが多いが、意外と台本の流れに忠実~宮藤官九郎演出『ロミオとジュリエット』

 宮藤官九郎演出、M&Oplaysプロデュース『ロミオとジュリエット』を本多劇場で見てきた。

 

 セットはジュリエットの家に見立てた壁で仕切られていて回転するようになっている。ブロックを大きくしたようなカラフルな箱などがそのへんに散らばっており、壁以外のセットはわざとチープにしてあって、ちょっと保育園とか子ども図書館の遊び場みたいな見映えである。衣装の色合いも含めて、意図的に学芸会っぽい見た目になるようにしてある。

 

 演出は全体的に非常に笑いが多い。『ロミオとジュリエット』は本来は喜劇になるような筋書きなので(恋人たちが保守的な大人を出し抜いて一緒になるというのは恋愛喜劇のプロットだ)、笑いが多い演出にするはとくに珍しくはないのだが、できるだけ肩の力を抜いてリラックスして見られるような作りになっているところが特徴だ。登場人物たちもわりと親しみやすい雰囲気に作っており、ロミオ(三宅弘城)は引きこもり気味でユーウツな性格の小柄な若者なのだが(四頭身なのが劇中でネタにされてた)、それが恋に落ちて急にとても生き生きし始める。ジュリエット(森川葵)もごくフツーの女の子なのだが、ただそれならもうちょっと女言葉を使わない現代っ子らしい話し方に台詞を崩しても良かったと思う。ロレンス修道士(田口トモロヲ)は近所のおじさんみたいな感じなのだが、突然憑依されたりするのでギャップがすごい。こんな感じでお笑いを繰り広げるのだが、最後はちゃんと可哀想な恋人たちの死でメリハリをつけて悲しく落としているものの、あまり重い雰囲気はなく、むしろ親や社会の抑圧がなくなったあの世でロミオもジュリエットもバカ騒ぎをしてるんじゃないかというような後味で終わる。

 

 わりとアドリブなどがある一方、『ロミオとジュリエット』の上演としてはあまりカットを行っておらず、比較的台本の流れ、とくに笑いと深刻な場面のメリハリの流れに忠実だ。たいていの上演ではカットされる、第4幕第4場でピーターと音楽家たちが話すところが残っており、それどころかコントまで付け足されている。ここはもともとコミックリリーフを提供する場面だと思うので、こういう笑い重視の上演だと残しておくのが適当なのだろうと思う(ピーターがかなり活躍する)。薬屋の場面も、パリスが殺されるところもちゃんとやっている。そのかわりにロミオから結婚式の予定を知らされた乳母が帰ってくるところなどがカットされている。