『English Journal』の誌面に書いた記事がウェブ公開されました。
史実を無視しており、かなりひどい~『博士と狂人』
『博士と狂人』を見てきた。いつも私がお世話になっているオクスフォード英語辞典の作成過程で、殺人犯で精神病院に入院していたマイナー(ショーン・ペン)がボランティアとして例文集めに貢献したという史実をもとにした作品である。
サイモン・ウィンチェスターのノンフィクションを原作にしている…のだが、えらく史実や原作からはかけ離れている。オクスフォード大学がやたらと足の引っ張り合いをしたがる学者たちの魔窟みたいに描かれていて、あんまり学問の楽しさみたいなことがわからない描写になっている。さらに史実に反したマイナーと殺人被害者の寡婦イライザ(ナタリー・ドーマー)のロマンスはあまりにも現実離れしていて全く要らないし、正直、センチメンタルすぎて実在の人物をバカにしているんじゃないかという気すらした。 最初はオクスフォード英語辞典のエディターであるマレー役のメル・ギブソンが監督する予定だったそうで、間違いを犯した人間に二度目のチャンスを与える重要性とか(ギブソンはお酒の問題で大失敗して干されている)、信仰とか、やたらしつこくゲロを撮るとか、ギブソンっぽい箇所はいっぱいあるのだが、なんでももめ事でギブソンも監督のファラド・サフィニアもこの映画は自分の思ったような作品にならなかったと言っているらしい。たしかにそれもわかる感じのぱっとしない作品である。
一箇所だけ良かったような気がするのは、私が大変尊敬している文献学者のファーニヴァルが一人だけやたらいい人キャラで、しかもスティーヴ・クーガンが演じているということだ。クーガンが裏表も皮肉もないキャラというのは珍しく、いつかイヤな奴にならないか心配しながら見ていたのだが(ショーン・ビーンが出てきたら突然死を警戒するのと同じように、クーガンが出てきたらイヤミを警戒しなければならない)、最後まで立派な学者で学問と友人と正義のためには努力を惜しまないキャラだった。実際にファーニヴァルは学者として優れているだけではなく、社会活動にも熱心な人であった。なお、ファーニヴァルはケネス・グレアムの『たのしい川べ』のねずみのモデルじゃないかとも言われている人である。
English Journalオンライン連載の最終回が出ました
バルカン半島のきなくさい政争を描く~パトリック・スチュアート『マクベス』(配信)
The Shows Must Go Onのネット配信で『マクベス』を見た。ルパート・グールド演出、パトリック・スチュアート主演で2010年のものである。もともとは2007年にチチェスターで上演したものをテレビ用に翻案したらしい。
舞台設定としては1960年代頃のルーマニア、チャウシェスク政権あたりをヒントにしているらしく、バルカン半島のきなくさい政治闘争を描いた作品だ。マクベス(パトリック・スチュアート)の大きな写真がかかげられたホールとか、晩餐の場面でレコードをかけて民族歌謡みたいなのにあわせてダンスゲームをするところとか、かなり東南ヨーロッパを意識していると思われる。一部はキャヴェンディシュ公爵家の屋敷であり、王党派の居城としてイングランド内戦で包囲されたウェルベック・アビーで撮影されているそうで、つまりイングランドじたいの暴力的な歴史と1960年代のバルカン半島の不安な政情を重ね合わせているのではないかとも思われる。
全体的にかなり好みの分かれそうな演出だが、既に70歳近かったはずのパトリック・スチュアートが実にエネルギッシュな独裁者をむしろ若々しいくらい生き生きと演じている。最初はまあよくいる勤勉な政治家・軍人タイプだったマクベスが、野心のせいで権力に溺れてどんどん「立派な独裁者」らしくなる様子を見事な台詞回しで表現している。とくにマクベスがサンドイッチを作りながらバンクォー暗殺の計画を練るところは、なんかもうパンを切っているだけで全身から不穏極まりない雰囲気が醸し出されており、こんなに不味そうなサンドイッチも珍しいと思って見ていた。なお、魔女たちが看護師の姿で出てきて、電気ショックみたいなのを使いながら予言をするところはちょっとやりすぎと思う人もいるかもしれないが、私はなかなか面白いのではないかと思った(映像よりもむしろ舞台のほうが映える演出かもしれない)。
楽しいところはたくさんあるが、感覚が古い~『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』
『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』を見てきた。エドモン・ロスタンが『シラノ・ド・ベルジュラック』を作る過程を描いたバックステージものである。ただ、かなり脚色があると思われる。
舞台は19世紀末のパリ、売れない詩人・劇作家のエドモン(トマ・ソリヴェレス)はサラ・ベルナール(クレマンティーヌ・セラリエ)に気に入られたことからスターであるコンスタン・コクラン(オリヴィエ・グルメ)の主演戯曲を急遽執筆することになる。あまり筆がすすまないエドモンだが、カフェの主人であるオノレ(ジャン=ミシェル・マルシアル)や友人である俳優のレオ(トム・レーブ)と接するうちにインスピレーションをもらってだんだん書き進められるようになる。ところがレオと衣装係のジャンヌ(リュシー・ブジュナー)の恋路を助けてラブレターの代筆をするうち、エドモンはどんどんジャンヌとの文通にはまってしまい…
『シラノ・ド・ベルジュラック』の内容とエドモンの暮らしがオーバーラップしていくというのは、『恋におちたシェイクスピア』の二番煎じでまあ陳腐だがそんなにつまらないというわけではない。最後に『シラノ・ド・ベルジュラック』の舞台が(おそらくは観客の想像力で)舞台から外に飛び出してリアルな背景の中で展開するお話になるあたりはオリヴィエの『ヘンリー五世』などを思われるオーソドックスな演劇映画のテクニックだが、修道院や木のある庭などはなるべく綺麗な画面になるよう工夫されている。笑うところもけっこうある。また、なにしろ19世紀末の話なので初演にかかわった人たちの写真などが残っており、ポストクレジットでそういう画像や映像が見られるものよいところだ。
ところが、基本的にはけっこう楽しい作品なのにところどころでやたら感覚が古くて寒いところがある。まずオノレが黒人男性で、とくに義理もないのにエドモンを助けてくれるというところは典型的なマジカル・ニグロで実にステレオタイプな表現だ。オノレ自身はなかなかキャラとしては良く、掘り下げたらもっと面白くなる可能性もありそうなのに、残念なところだ。さらにロクサーヌ役のマリア(マティルド・セニエ)の扱いがひどく、最初は文句ばっかりのディーバ風だったのが最後にコクランに対してなかなかいいことを言ってキレイに終わる…のかと思ったら、とんでもない扱いで退場させられ、ロクサーヌ役をジャンヌに奪われてしまう(この展開は『恋におちたシェイクスピア』の劣化版である)。ジャン(イゴール・ゴッテスマン)が舞台裏でセックスするくだりも、あれはフランス式のジョークなのかもしれないが、あんなことで緊張がほぐれるって、なんとなく舞台の大変さみたいなものをバカにしている気がする。さらにジャンヌに心が動いていたエドモンを妻のロズモンド(アリス・ドゥ・ランクザン)が最後に許すくだりは全く意味不明である。おそらく、ラブレター問題の真相を知ったジャンヌが何のためらいもなくエドモンをフって、エドモンもジャンヌは現実の女性でロクサーヌではないということを認識し、芝居と現実の違いに気付いて妻に謝るとかいう展開ならもっと面白かったのではないかと思う。こういう感じで展開にいろいろアラのある作品だった。
なお、このへんは私以外にもやっぱり引っかかった方はおられたようで、KellyPaaBioさんもほとんど同じ箇所について指摘されている。あと、『恋におちたシェイクスピア』は、型にはまっているところはあってもやっぱりこの手のものとしてはデキが良かったな…という意識を新たにした。