数日前にid:naokimedさんのこのツイートを見て、デカルトの『省察』は「せいさつ」と読むことを初めて知った。なんかエドマンド・バークの『フランス革命についての省察』は「しょうさつ」と読んでいるのしかきいたことないので、てっきり「しょうさつ」だと思っていた。
で、気になって数人の知人にきいてみたところ、なんか面白いかもしれないことがわかった。なんと、"Reflection"の訳語としての「省察」は「しょうさつ」と読まれる可能性が高いが、"Meditation"の訳語としての「省察」は「せいさつ」と読まれる可能性が高そうだということである。
とりあえずReflectionのほうなのだが、エドマンド・バークの『フランス革命の省察』は"Reflections on the Revolution in France"で読みは「しょうさつ」。行動主義で有名なスキナーの『人間と社会の省察』(Upon Further Reflection)もしょうさつ。ちょっと問題なのはサイードの『故国喪失についての省察』(Reflections on Exile and Other Essays)で、これは国立国会図書館が「しょうさつ」、Webcatが「せいさつ」と目録が一致してないのだが、経験上たいてい「しょうさつ」と読まれてると思うんだよな…
一方、デカルトの『省察』(Meditationes de prima philosophia)はせいさつ。ウェブキャットはブルデューの『パスカル的省察』(Méditations pascaliennes)をしょうさつでとっているのだが、上のnaokimedさんのツイートによると慣用的には「せいさつ」と読まれているようである。あと、ヘント・デ・ヴリース『暴力と証――キルケゴール的省察』(Violence and Testimony: Kierkegaardian Meditation)っていう本にもせいさつという読み仮名がついていた。
サンプルが少ないので確かなことは言えないのだが、これはたぶんイギリス系の政治思想とかではreflectionを「省察」と訳して「ショウサツ」と読む習慣がある一方、フランス語系の哲学史とかではmeditationを「省察」と訳して「せいさつ」と読む習慣があり、双方は何か違う伝統にのっとっているのではないか?なんでも哲学ではreflectionを「反省」と訳すことが多いという情報も頂いたので、どうやら訳し分けに何か差があるようだ。