ただのラビッシュ~『モダンライフ・イズ・ラビッシュ ロンドンの泣き虫ギタリスト』(ネタバレあり)

 『モダンライフ・イズ・ラビッシュ ロンドンの泣き虫ギタリスト』を見てきた。一言出言うと、この映画じたいがただのラビッシュ(ゴミ)みたいな内容だった。

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 舞台はロンドンである。主人公でロックミュージシャン志望のリアム(ジョシュ・ホワイトハウス)はレコード店で会ったデザイナー志望のナタリー(フレイア・メーヴァー)と恋に落ちるが、最初はうまくいっていたものの、稼ぎがなくバンド活動もパッとしないリアムと現実的なナタリーがだんだんすれ違うようになって…という話である。

 

 この映画、タイトルの『モダンライフ・イズ・ラビッシュ』(「現代生活なんてゴミだ」)はほとんどウソである。とりあえず日本語の副題が壊滅的にダサいのは別として、タイトルがブラーのアルバムタイトルなのにブラーの曲は一曲もかからないし、主人公のリアムがやってるバンドも壊滅的にブラーっぽくない。最初にカップルが出会うのがブラーのCDをめぐる話だから…というのはあるのだが、それ以外にブラー要素はゼロである。リアムがiPhone嫌いで21世紀らしい暮らしを嫌ってるという要素はあるのだが、その描写もなんかアホっぽくて、最後はやっぱiPhoneSNSがないと!みたいに安易に着地してしまうので全くタイトルは効いていない。音楽とテクノロジーとの付き合いについてなら『フランク』とかのほうがずっとちゃんとしてる。また、始まりと終わりの時間経過がけっこう曖昧で、その時リアルタイムで流行っていた音楽が何なのかとかがよくわからない描き方になっているのもよくない。

 

 主人公のリアムはなんかラリってないぶんたちの悪いピート・ドハーティみたいな人なのだが、そう思いながら見ていたら、一番最初にちゃんとかかるUKロックがリバティーンズの「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」だったのでちょっと笑ってしまった。このリアムは徹頭徹尾ウザくてダメな人で、顔以外にはあんまり魅力がないし、バンドのほうもどの程度頑張ってるのかよくわからない。音楽的にも、レディオヘッドに最近流行のファルセットを足したみたいな感じでそんなに面白みはなかったと思う。最後ちょっと立ち直りかけるところで多少はまともな感じで着地するか…と思ったら、なんと怒って出て行ったはずのナタリーとよりを戻してしまうので、恋愛映画としてはそれはそれはひどい内容だ。正直、別れたはずのナタリーに突然手作りグッズが入った箱を送りつけるリアムは気持ち悪いし、あんなにひどい目にあわされたナタリーがあの程度のことで心を動かされるとか「ないないないない」と思って見ていた。こんなバンド青年の妄想全開みたいな展開あるわけないし、あったとしても見たくないし、映画にするならいい話じゃなくて泥沼恋愛のひどい話として映画化すべきである。

 

 前半には少しだけ面白いところもあり、リアムがコンドームを探すところはセックスシーンとしてちょっとリアルで面白おかしくて良かったし、ロンドンの風景の撮り方とかも悪くないところはある。そうはいっても後半があまりにもひどかったので、全体としては全くダメだと思う。なお、ベクデル・テストはパスしないし、女性の描き方については、ヒロインが夢追い人の彼氏を身を犠牲にして助けてあげる…みたいなクリシェであんまりいいところはない。

 

スティーヴン・エリック・ブロナー『フランクフルト学派と批判理論』

 スティーヴン・エリック・ブロナー『フランクフルト学派と批判理論ー<疎外>と<物象化>の現代的地平』小田透訳(白水社、2018)を献本で頂いた。

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女王を称えてるだけ~『ボヘミアン・ラプソディ』における、クイーンの外に広がる闇

 『ボヘミアン・ラプソディ』を見てきた。言わずと知れたクイーンの伝記映画である。

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 主人公であるザンジバル生まれのパールスィー家庭の息子フレディ(ラミ・マレック)がギターのブライアン(グウィリム・リー)とドラムのロジャー(ベン・ハーディ)のバンドに入り、ベースのジョン(ジョゼフ・マゼロ)も加入して大成功するが、やがてフレディは自分がゲイ(あるいはバイセクシュアル)だということを自覚しはじめ、恋人のメアリー(ルーシー・ボイントン)とも以前ほどうまくいかなくなってきたり、バンドとも亀裂が生じていろいろなトラブルを経験し、やがてエイズになったことがわかるが、ライヴエイドで奇跡の復活を…という話である。

 

 とりあえず私のクイーンに対する思い入れが相当偏っているからかもしれないと思うのだが(初めて自分のお金で買ったシングル盤はフレディ追悼盤「ボヘミアン・ラプソディ」だった)、私はこの映画が全然、好きじゃない。初っ端からライヴエイドの予告的な映像を持ってきて大音量で音楽をかけ、強制的に観客の精神状態を上げておいてそのままの勢いで最後まで疾走するという作りは凄いと思うし、フレディを演じるラミ・マレックをはじめとして役者陣の演技はとてもちゃんとしてて、つまらない映画ではないと思うのだが、脚本は相当にスカスカだと思う。

 

 まず、最後にライヴエイドをえんえんと見せるところが個人的に気味悪かった。私は子供の時に何度もクイーンのライヴエイドの映像を繰り返して見ていたのだが、マレックのパフォーマンスはなんか降霊術リップシンクを見ているみたいだ。何しろ音源はクイーンのものをそのまま使っているので、ただの物真似だ。しかもライヴエイドの間は話は全然進まないし、これならホンモノのクイーンのライヴ映像を映画館で大音量で見たほうがいいと思う。

 

 ライヴエイドで演奏した曲についてそれまでのエピソードで経緯が描かれていないのも良くない。「ボヘミアン・ラプソディ」以外の曲については全然、それまでの映画に出てこなかったものだ。とくに代表曲である「伝説のチャンピオン」はクイーンのキャリアの上でも物語上でも重要な楽曲になるはずなので、それ以前に一度出しておくべきだったと思う。どういう気持ちで作った曲なのかを描かずに最後に出てくるので、映画中ではそれまでのキャリアの集大成として描かれるべきライヴエイドの各楽曲がどういう機能を果たしているのかよくわからない。なお、この場面はライヴエイドの完全な再現ではなくてカットされている楽曲があるのだが、「ウィー・ウィル・ロック・ユー」は実際に歌ったはずなのにカットされてて、映画の中盤でこの曲の経緯が詳しく描かれていたのを考えると楽曲のチョイスが相当おかしいと思った。ちなみに他にもいきなり出てくる楽曲はあり、フレディとデヴィッド・ボウイがデュエットした「アンダー・プレッシャー」が突然かかるところのはかなり唐突だ(ボウイはクイーンと協働する登場人物としてはちゃんとこの映画に出てこない)。

 

 基本的にこの映画においては、クイーンの外に音楽は存在しない。他のミュージシャンが全然出てこないので、クイーンがどういう音楽的な背景から出てきたのか、どういうシーンに登場したのか、どういう文脈で評価や批判を受けたのかということが全然わからない。画面にきちんとうつるミュージシャンはライヴエイドのオーガナイザーだったボブ・ゲルドフだけで、しかもゲルドフは演奏しない。この映画は基本的にシーンの孤高の女王であるクイーンを称えるだけで、クイーンの外には音楽的な闇が広がっている。フレディがソロ活動をはじめて他のメンバーから反発をくらい、失敗するというのは、この外部に広がる音楽的な闇を強調するものだ。クイーンはクイーンだけで閉じていて、外には得体の知れない不毛な音があるだけだ。

 

 しかしながら、こういう描き方は史実には全くのっとっていない。既に指摘されているように、フレディがソロアルバムを出す前にロジャーもブライアンもソロ活動をしている。またまた、ライヴエイドの後にフレディがオペラ歌手であるモンセラート・カバリェと組んで作った『バルセロナ』は野心的な作品「バルセロナ」を生んでいるし、このアルバムにはジョンもベースで一曲参加したりしているので、別にフレディのソロ活動は不毛で他のメンバーに恐れられる闇というわけではなかったはずだと思う。この映画ではそういうクイーンの外に広がる音楽世界は一切存在せず、ネガティヴなものとして描かれている。

 

 音楽的なものの描き方以外についても、全体的にこの映画は史実にはあまり準拠しておらず、とくにフレディのエイズをめぐる描き方はお涙頂戴のため事実を歪曲していてフレディに対する侮辱だと批判されている。フレディのパーティ三昧のライフスタイルが非常に不道徳なものとして描かれており、悪いゲイに誘惑されて道を踏み外したが、最後はちゃんとした男性と出会って家族やバンドのもとに戻ってくる…という展開も保守的だ。ファンとしては「なんであのエピソードがないんだろう」とか「なんであの曲を使わなかったんだろう」と思えるところもたくさんある(個人的には、古い教会を改装したスタジオで撮った「ウィー・ウィル・ロック・ユー」をいつものスタジオで撮っているのに、ライヴエイドのリハーサルは教会スタジオでやっていたのが凄く気になってしまった)。映画としては一応まとまっているんだろうが、この映画よりも実際のクイーンのほうが何倍も素晴らしくて、何倍もヤバいバンドだったと思う。

 

 私は全然好きになれなかったが、この映画で今までクイーンを聴いたことがなかった人の耳にもクイーンが届くんならそれでいいと思う。この映画はクイーンのほんとうに表面にすぎないので、奥にはもっと深い荒波が広がっている。もしこの映画で初めてクイーンを聴いてこれから他の曲を聴こうという人がいるのなら、すごくうらやましい。これから初めて聴ける素晴らしい曲がたくさんあるからだ。"Tie Your Mother Down"も"'39"も"One Vision"も、これから初めて聴ける。

 

私はどうもこの戯曲が超苦手らしい~『セールスマンの死』

 神奈川芸術劇場で『セールスマンの死』を見てきた。

 この戯曲を見るのは始めてだったのだが、事前に戯曲を読んで「これ、面白いの…?」と思って見に行ったところ、演出とか演技とかセットについては一切不満がないのに全く面白くなく、眠くてつらくて頭を抱えてしまった。どうも私はこの戯曲が個人的に超苦手らしい。

 

 それで、なぜ苦手なのか考えてみたのだが、そもそも私はセールスマンが苦手だという身も蓋もない理由を思いついた。私は子どもの頃からアポイントメントなしに家にやってくるセールスマンが大嫌いで、今でも研究室にアポイントメントなしに書店の営業の人が来たりするのがすごく苦手なのだが、だからそもそも主人公のウィリーが職業からしてすごく迷惑な人に見えているんだと思う。

ボンドガールが変顔と戦うのを見られるのはこのシリーズだけ!~『ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲』(ネタバレあり)

 『ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲』を見てきた。イングランド一使えねー女王陛下のエージェント、ジョニー・イングリッシュシリーズ第3作である。

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 ジョニー・イングリッシュ(ローワン・アトキンソン)はMI7を退職して学校で地理教員をしており、スパイ技術を生徒にこっそり教えていて、大人気の先生だ(むしろスパイより教師のほうが向いてるのでは…)。ところが英国政府をターゲットにした大規模なハッキングでエージェントの全情報が流出。引退したスパイたちが呼び戻され、ひょんなことからジョニーは仕事に復帰することに…

 

 とにかくバカな映画で、相変わらず無駄に豪華なキャスティング…なのだが、なんと冒頭でチャールズ・ダンスマイケル・ガンボンエドワード・フォックスという名優たちが出てきてすぐ居眠り(!)のせいで退場という展開になる。首相役はエマ・トンプソンだ。前作に引き続きイングリッシュの相手役の女性を演じるのは元ボンドガールで(前回はなんとロザムンド・パイクだった)、今回はオルガ・キュリレンコがロシアのエージェントを演じる。美しくタフなボンドガールがジョニー・イングリッシュの変顔あふれる諜報活動(?)に巻き込まれるのを見られるのはこのシリーズだけである。まあいろいろツッコミどころのある映画ではあるのだが、私はこのバカバカしいシリーズが大好きだ。

 

 今作ではジョニーがまったく世の中の変化に追いつけていないことがギャグになっている。スマホタブレットもまともに使えなそうだし、VRを使う訓練では大失敗するし、電気自動車の威力を侮って追跡ではガス欠になり、さらに性差別的な偏見が邪魔して部下のボフの妻が原潜の艦長だということがパッとわからないなど、世の中の習慣の移り変わりが理解できていないのでばかばかしい失敗をしまくる…のだが、最後はアナログな物理力でザッカーバーグのパチモンみたいなワルいIT長者を倒す。イングリッシュはその名のとおり古き良きイングランドらしさを象徴する人物ではあるのだが、彼が象徴するイングランドらしさというのは限りなくおバカなものである。さらには今回はスコットランドらしさまで発揮してしまい、民族衣装の下には何も着ないという伝統を守ったため最後は英国人らしさ丸出しになってしまうというオチもつく。

 

 このシリーズはけっこう地元ネタのギャグなども入るので、字幕は苦労していたと思う。重要なスパイグッズとして出てくる「シャーベット」(Sherbet)というのがあるのだが、これはイギリスでよく食べられている粉状のおやつである。最初の字幕では「ソーダ粉」となっていたのだが、次に大事なポイントで出てくる時は字幕表示が「シャーベット」という字幕になっていて、ちょっとわかりづらいのでは…と思った。なお、ベクデル・テストはパスしない。

 

 

 

講談社サイトにマンスプレイニングについての記事を書きました

 講談社サイトの「現代新書」コーナーに「男たちはなぜ「上から目線の説教癖」を指摘されるとうろたえるのか」という記事を書きました。接頭辞としてのman-とか、この言葉の背景とか、わりと歴史的なことが多いです。

 

gendai.ismedia.jp

 

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やっぱりいなかったのかもしれないね~『豊饒の海』における美しい空隙、東出昌大

 紀伊國屋サザンシアターで『豊饒の海』を見てきた。三島由紀夫の大長編小説の舞台化で、長田育恵脚色、マックス・ウェブスター演出である。

 

 『豊饒の海』は四世代にわたる輪廻転生を主題としており、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の四巻からなっていて、多数の人物が登場する壮大な物語である。一部舞台がタイになるし、とにかく舞台化しやすい話ではないのでかなり心配していた…のだが、思ったよりずいぶんすっきりとした話になっていて感心した。四巻を時系列順にやるのではなく、前半は『春の雪』『奔馬』『天人五衰』が並行して展開し、後半になってやっと『暁の寺』が入ってきて、全体にたるくならないように配慮されている。かなりばっさり削っているのだが、とくに『奔馬』の中に組み込まれている大部な作品中作品である『神風連史記』(名前は出てくるのだが)の内容と、『暁の寺』のタイで展開する部分などが全部カットされている(芝居では日本でジン・ジャンと本多が初めて会ったことになっているが、原作ではその前に本多が一度タイに行っている)。本多は年齢に応じて3人の役者(笈田ヨシ首藤康之大鶴佐助)がそれぞれ別々に演じる。

 

 全体的にものすごくわかりやすく、単純に話として面白くなっているように思ったのだが、たぶん『神風連史記』が全カットなのが大きいと思う。原作の『神風連史記』は、私の考えでは面白くないこと甚だしく、そしてそのつまらなさがこの小説における右翼思想の働きを考える上で重要だと思うのだが(著者の三島の意図としてはすごく大事なことを書いているつもりだったのかもしれないが、それでも結局すごくつまらないというのが全体の構成上重要なんだと思う)、芝居にする時はこの手の作品内作品は盛り込みづらいので全カットしている。そのせいで話の流れがスムーズになったが、ただ政治的に考えさせられるコントロヴァーシャルなポイントは減ったかもしれない。ジン・ジャンのパートについてはちょっとカットしすぎな気もした。

 

 ヴィジュアルはとても素晴らしく、空間や動きの計算がとても上手だ。セットは傾斜のついた床板だけがあるシンプルな舞台をフレキシブルに使い、屏風とか木とか家具を運び込んでいろいろな場所にするというものである。黒衣が花やら紅葉やらを持って舞台で植物役になったりするあたり、ちょっと歌舞伎などを思わせるところもある(三島は自分で台本を書くくらい歌舞伎に通暁していた)。大きい仕掛けとしては真ん中に実際に水が流れる滝があり、これがここぞというところでけっこう効果的に使われている。また、ストレートプレイの抽象的な演出にダンスを持ち込むのは目も当てられない結果になることも多いのだが、これは登場人物の心情や象徴などを表現するため、かなり考え抜かれた振付で役者を動かすというもので、大変うまくいっていると思った。とくに清顕と聡子のセックスと勲の切腹が交錯するところはなかなか踊りの使い方が面白いと思った。

 

 そしてたぶんこのプロダクションで大事なのは、一番重点を置いて作っている『春の雪』パートの主人公である松枝清顕(東出昌大)のキャラクター造形なのではないかと思う。最初、東出昌大が絶世の美青年で20歳そこそこの清顕役だと聞いて大丈夫なのかなと思ったのだが、結局大正解だった。東出昌大はあんなにハンサムなのに妙に存在感が微かだというか、生身の肉体を備えた人間として実在していないみたいな変な雰囲気を醸し出しているところがあると思うのだが、このプロダクションの清顕も、なんというか舞台に美しい空隙があるみたいな感じで、不可解だし気まぐれにも見える振る舞いにはちょっとイラつくところもあり、部厚い人間味みたいなものが無くて、まるで夢に出てくる影みたいだ。しかしながらその舞台にぽっかりあいた輝かしい穴みたいな稀薄な存在感のせいで、最後の「松枝清顕なんていう人、本当にいたんでしょうか?」というオチが非常にしっくりくる。あの清顕なら本当にいなかったのかもしれないし、人生なんていうのは夢で記憶もあてにならないのかもしれない。