子どもの無限の可能性を失って大人のつらい恋がはじまる〜クィアからヘテロノーマティヴへ至る物語『君の名は。』(ネタバレあり)

 新海誠監督『君の名は。』を見た。新海誠の監督作を見たのはこれがはじめてである。

 もう大ヒット作であまりあらすじとかは書かなくてもいいと思うのだが、時空を越えた愛というタイムトラベルSFの王道テーマに男女の入れ替わりを絡めた超ロマンティックな作品である。ややこしくなりがちな展開をすっきりと上手に処理しており、美しい絵柄もあいまって大変よくできた恋愛ものになっている(展開はいろいろ突っ込みどころもあるが)。

 この映画の特徴としては、子ども時代の時空というのが極めて若々しく、無垢で、キラキラした無限の多様性を秘めたある種クィアなものとして提示されていることがあると思う(クィアという言葉の意味については既に連載でけっこう書いたりしているのであまり詳しくは触れないが、要はいわゆる「ふつう」と違う、何かちょっと逸脱があるようなセクシュアリティのことである)。前半部分で入れ替わる三葉と瀧のセクシュアリティは、いまだに確定していない、海のものとも山のものともつかないようなところがあるものとして描かれている。
 三葉は少女なのだが、瀧の身体に入った時は瀧のバイト先の年上の美女である奥寺先輩とやたら仲良くしている。瀧の身体に入った時の三葉の甲斐性のせいで奥寺先輩と瀧はデートにこぎつけるのだが、その時に「本当なら私が奥寺先輩とデートしたい」とか三葉がメモを残すところがあり、この時点での三葉は瀧と身体的につながっている一方、瀧の身体を介して女性である奥寺先輩にも淡い恋をしているような宙ぶらりんの状態に置かれている。
 一方で瀧はもうちょっと最初からヘテロセクシュアルな感じで、三葉の身体を獲得した後はやたら自分のおっぱいばっかり触っていている…ものの、しつこく描かれるうちにそれがなんだか完全に自分だけで満ち足りるふしぎな性愛みたいに見えてくるところがある。三葉を失ったと思った後、最後の手段でまた三葉の身体に入って目覚めることができた時、瀧は自分のおっぱいを触って安心して泣くのだが、この自分のものでないはずの身体で安心してしまうという描写にもなんとも言えないセクシュアリティアイデンティティの揺れがあると思う。
 瀧がおっぱいばっかり触っている描写はバカなんじゃないのと思うところもあるが、全体的にこの2人の性的アイデンティティが確定していないところはある種の無垢さとして描かれていると思う。汚れを知らず、何にでも変化しうる子どもの可能性の力により、この2人は時という一見直線的で不可逆なものにさえ挑むことができる。
 
 さらに面白いと思うポイントは、この2人は両者とも芸術を通して神の世界につながっているということである。三葉は巫女で舞を踊るし、組紐を作るということで手わざによって神に仕えている。一方、瀧は絵が上手で、自分が三葉の体に入っている時に見た糸守の風景を絵に描いており、そのおかげで町民の信頼を勝ち得て神の場所に接近することができる。

 ところがこの映画はこういうあらゆる可能性が広がり、時空さえ変えることができる子ども時代が単線的でヘテロノーマティヴ(異性愛規範的)な大人の時空に回収されていくところで終わっていく。性的にも芸術的にもいろんな可能性を秘めており、何にでもなれたはずのこの2人は、大人になるともう芸術もせず、子どもの頃の夢のような可能性の時空を忘れて毎日を生きている。最後に2人が直線的な時間の中で再開するところでこの物語は終わるが、この出会いは実はあまりハッピーな終わり方ではないと思った。ここで子ども時代の夢は終わってしまって、ここからは異性愛的で前にしか進まない、ある意味で汚く残酷なところがある大人の愛の生活が始まるだけである。そういう意味では、子どもの無垢と無限の可能性の喪失という悲しい要素のある終わり方なのではという気がした。

 なお、この映画はベクデル・テストはパスすると思う。三葉と四葉の日常会話でパスする。