風が吹くとやってくる、ヤバいイノベーター~『メリー・ポピンズリターンズ』(ネタバレ)

 『メリー・ポピンズリターンズ』を見てきた。

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 時代は世界恐慌の時代、不景気なロンドン。バンクス夫妻亡き後、成長したジェーン(エミリー・モーティマー)とマイケル(ベン・ウィショー)の姉弟は相変わらず同じ家を持っているが(ジェーンは別居だが毎日のように家に来てる)、家計が苦しくなかなかうまくいかない。ジェーンは労働運動家として不況にあえぐ労働者の権利を守るため忙しく働いている一方、ベンは画家をあきらめ、妻ケイトも失って3人の子供をかかえ、負債のせいで家までとられそうになっている。そこにメリー・ポピンズ(エミリー・ブラント)がやってきて…

 

 前に舞台を見た時にも書いたが、私はメリー・ポピンズがどうもスティーヴ・ジョブズみたいに見えてあまり好きになれないというか、突然風にのってやってきて、現実空間を歪曲して人々のヴィジョンを変え、嵐のようにイノベーションを起こして去っていくヤバいヤツに見える。完璧なスーパーヒーローすぎてちょっとついていけない。最近のスーパーヒーローはわりと悩んでたり、欠点があったり、人間味があったりするのだが、『メリー・ポピンズリターンズ』のメリーは相変わらず完璧なイノベーターである。

 

 いろいろ強引なところはあるのだが、前作をしっかり引きついでいる一方、21世紀の今の社会状況にあうようアップデートしているところもある。バンクス姉弟が没落ミドルクラスとして生活に苦しんでいるあたりは、真面目に働いていても暮らせない人が多くなっている現代の格差社会を思わせるものだ。さらに今作ではマイケルが寡夫になったばかりで、妻を失ったショックもあって精神的にも経済的にも全然子育てがうまくいっていないという設定で、ひとり親家庭が抱える問題を解決するためメリーが来るというのはすんなりわかる。

 

 全体的かなりクラシックな感じにまとめようとしているのだが、そこでちょっと新機軸なのがリン=マニュエル・ミランダ演じる街灯点灯人のジャックだ。前作のバートに相当する役なのだが、ロンドン子という設定のバートを演じたディック・ヴァン・ダイク(今回も最後に出てくる)がアメリカ人だったため、真似てやったコックニーアクセントが全然コックニーらしくなくて(とくにイギリス人の)ファンに笑われたという話は有名である。リン=マニュエル・ミランダはプエルトリコ系でニューヨーク生まれのアメリカ人なのでやはりアクセントが課題と公開前から言われていた…のだが、どうもアクセントはロンドンというかなんかどこかのアイルランドの田舎出身者みたいな感じである(後で調べたらネイティヴにもそう言われてた。ちなみにアイルランド英語のネイティヴスピーカーであるクリス・オダウドがアイルランド犬シェイマスの声をあてている)。

 わざわざイギリス英語があやしいミランダをキャスティングしたのは歌と踊りのためであり、途中で点灯人たちの大規模なダンスナンバー"Trip a Little Light Fantastic"がある。この場面の労働者階級の描き方はミョーにアメリカナイズされており、ミランダの歌はほとんどラップだし、振り付けもちょっと雰囲気がブレイクダンスとはヒップホップ系の踊りに似ていたりして、アメリカのアフリカ系/ラティーノ表象になっている。新機軸といえばそうなのだが、ちょっと違和感がないでもない。ミランダの役はほとんどしゃべってるみたいな歌唱法のところがたくさんあるので、昔ならラッパーじゃなくサヴォイオペラのコミックロールを雇うところかなと思う(ちなみにベクデル・テストはメリーとトプシーが話すところでパスすると思うのだが、トプシー・ターヴィという言葉が出てきて、ここはちょっとサヴォイオペラを意識しているのかも)。

 歌と踊りだけではなく、話のほうもジャックがジェーンと恋に落ちるということになっており、階級を超えてロマンスが発生するという新機軸が取り入れられている。しかし、大恐慌の時代くらいだと、たぶんミドルクラスの女性がワーキングクラスの男性と恋愛することについてはけっこうイヤミを言う人も多かったのではと思うのだが、この映画はまあ子供向けの理想を描いているというのもあり、近所の人たちがこの2人の恋愛をばんばん応援する。バンクス家の人たちはフェミニストの母に育てられた労働運動家と画家のきょうだいなのでそういう古くさい考えは気にしないだろうが、リアルにやるならご近所でひとりかふたりはきっとイヤミを言うだろうし、大人向けの映画ならそのイヤミをのりこえるみたいな展開があるべきだろうな…と思って見ていた。

もっと可哀想にしてもよかったのでは?『フロントランナー』

 ジェイソン・ライトマン監督『フロントランナー』を見てきた。実話に基づいており、1988年の大統領予備選で民主党候補として最有力になったゲイリー・ハート上院議員(ヒュー・ジャックマン)が不倫により失脚するまでの3週間を描いた作品である。

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 魅力的だがちょっと一貫しないところもあるハートを演じるヒュー・ジャックマンの演技は素晴らしいのだが、全体的に今の政治状況にうまく話をつなげられていない気がした。現在、アメリカでは選挙の時からセクハラクズ野郎だとわかっていたバカ者が大統領にふつうに選ばれているのに、成人同士の不倫だけでこれだけ攻撃されて大統領選を降りざるを得なかったというのは、バカバカしいしピューリタン的で不公平だと思う。それならばもっとハートを可哀想に描くとか、何かもっと辛辣な諷刺にするとかしてもよかったと思うのだが、イマイチそのへんが突っ込めていないように感じた。

 

 なお、この映画はたぶんベクデル・テストはパスしない。女性同士の会話はあるのだが、たいがいハートのことが話題にあがっているからである。

カトレアの百合ミュージカル『レベッカ』

 ミュージカル『レベッカ』を見てきた。

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 話はダフネ・デュ・モーリエの原作やヒッチコックの映画にかなり忠実だが、ヴァン・ホッパー夫人(森公美子)の役が大きくなったり、仮装パーティでヒロイン(平野綾)が着たドレスのせいで起こる騒動が大きくなっているあたりはちょっと違う。また、映画版ではとても印象的に描かれていた、ダンヴァース夫人が亡きレベッカの衣装をヒロインに見せるものすごくレズビアンっぽい場面はなくなっている。

 

 衣装を見せる場面がなくなっているかわりに、ダンヴァース夫人(涼風真世)の亡きレベッカに対する恋情は歌で表現されている。艶やかなカトレアの花を前にレベッカへの慕情を歌うところなど、かなりなまめかしい百合ミュージカルになっているのだが、このレズビアンの恋情の相手が既に死んでいるというところが切ないやら怖いやらだ。全体的にかなり暗い話なのだが、図々しくて小うるさいけどなんか面白いヴァン・ホッパー夫人が出てくるところだけはとても笑えて、さすが森公美子だと思った。

良い映画だが、いろいろ改善点はある~『バハールの涙』(ネタバレあり)

 シンジャル山脈におけるヤズディ女性部隊の戦いを描いた映画『バハールの涙』を見てきた。

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 フランスの戦争ジャーナリスト、マティルド(エマニュエル・ベルコ)はシンジャル山脈でのヤズディ民兵とISとの戦いを取材することになる。ヤズディの女性部隊の隊長バハール(ゴルシフテ・ファラハニ)の勇敢さに感動するが、バハールはISに誘拐され、ひどい性暴力を受けて奴隷にされた壮絶な過去の持ち主で、生き別れになった我が子を探す執念に燃えていた。

 

 戦争において被害者となるだけではなく、抵抗を始める女性たちを描いているという点で比較的珍しい映画だし、ヤズディの女性たちに対する取材に基づいて作られた話だそうで(シンジャル山脈あたりには実際にヤズディの女性民兵部隊がいる)、ひとつひとつのエピソードはかなりリアルだし、女性同士の会話などはとても自然である(ベクデル・テストはクリアする)。民兵の女性たちが「女、命、自由」の時代を待望する軍歌を歌うところなどはたいへん感動的だ。ずいぶん悲惨で悲劇的な映画ではあるが、一応最後はバッドエンドでないところもちょっとはほっとする。

 

 ただ、作りの上で気になるところはけっこうある。まず、白人の戦争ジャーナリストであるマティルドの役は必要なのかな…というところだ。マティルドは片目のタフな女性で明らかにメリー・コルヴィンをヒントにしているのだが、こういう白人の観客が代理として映画に入るためだけに存在するような役どころというのはなくてもいいんじゃないかな…と思う。コルヴィンについては既に伝記映画が作られて日本でも公開されると思うし、こういう映画で事績を称えなくてもいいだろうと思う。隊長のバハールがたまたまフランス語がしゃべれるエリート女性だ、というのもちょっと都合が良すぎる気がした(フランス人のジャーナリストを出さなければこれも解決するのだが)。さらに、出てくる女性たちがみんなかなり母性に還元されがちなところがあり、母であり兵士であるという以外の側面があまり見えない。志は高いし感動的な作品だが、改善すべきところはたくさんあると思った。

最後の辻褄合わせがちょっと甘いのでは?『わが家の最終的解決』(ネタバレあり)

 恵比寿エコー劇場で『わが家の最終的解決』を見てきた。これは何度か再演された芝居で、前回のチラシのデザインがあまりにもひどかったため私はだいぶ批判したのだが、今回は良いデザインだと思ったので見に行ってきた。

 舞台は1942年のアムステルダムで、ゲシュタポの一員であることを隠してユダヤ人の恋人エヴァをかくまっているハンスを主人公に、次から次へとドタバタがもちあがる笑劇である。こういうテーマをコメディとして処理しているところはいいと思うし、笑えるところはたくさんある。ただ、この手の作品(私があまり好きじゃないレイ・クーニーの笑劇とか)にありがちな辻褄が甘いところがいくつかあるのがちょっと…と思った。最後にゲルトナーがオットーに気付かないのは、せっかく仕込んだネタが全く生きてなくてなんかすっ飛ばされたような感じになってしまっていると思う。ゲルトナーとオットーの間で一悶着あってゲルトナーが結局オットーを見逃す…という落とし方なのかと思ったが、ゲルトナーは気付きもしなかった。また、エヴァのところに原稿をとりにくる男(名前不明)がいるのだが、この男の設定がけっこう曖昧で、一応本人はユダヤ系だという言及があるのだが、じゃあなんでユダヤ系なのに隠れていないで普通に外を歩いているのか…と思うし、ユダヤ系なら最後のユダヤ人狩りのドタバタの場面であんまり慌ててないというのはおかしい(辻褄のためにはレジスタンスだっていう触れ込みにすべきなのでは?)。また、ルドルフはどうも同性愛者ではないかと思われるのだが、これもナチスが同性愛者を迫害していた話につながるのかと思ったら全然ちゃんとつながらない(最後にこれでルドルフを説得するのかと思ったらそうではなかった)。全体的に、仕込んだネタが最後で生きていない感じがする終わり方だった。

こんなのは地獄じゃない~神奈川芸術劇場『出口なし』

か KAAT神奈川芸術劇場白井晃演出サルトル『出口なし』を見てきた。ガルサンが首藤康之エステルが中村恩恵、イネスが秋山菜津子である。これを生で見るのはたぶん4回目くらいである。

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 いろいろ工夫したのはわかるのだが、全体に全く趣味でなくて辛くて眠かった…とりあえず、全体に踊りがあるのが良くない。踊りというのは気をつけないと美しくなりやすいが、『出口なし』というのは惨めで醜い地獄のような人生に関するドタバタしたブラックユーモア劇であって、美しかったりセクシーだったりしてはダメだと思うのである。言葉というのは醜悪な人生を表現するのは適しているが、その点、ダンスというのはどうしても美しく見えるところがあり(醜悪さを表現できないわけではないと思うが難しい)、鍛えられたダンサーが身体を動かすと芝居の見映えがひどくこぎれいになってしまう。これでは地獄ではない。

 さらに、サルトルは「まなざしの哲学者」で、『出口なし』は視線を問題化する芝居なので、ダンサーの動きを見て観客が純粋に喜んでしまうような演出ではダメだと思うのである。『出口なし』では登場人物が他者から見られることに過剰に意味を見出そうとしたり、他者を見ることで行動をコントロールしようとしたり、視線の権力をめぐる戦いが戯画化された形で醜く、諷刺的に描かれている。人は他者に見られ、他者を見ることで自分を確立するが、一方でその視線は容易に地獄になり得る。見ること、見られることのツラさについての芝居である『出口なし』に、美しい身体の居場所なんかないと思う。

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