手話をどうやって撮る?レッドトーチ・シアター『三人姉妹』

 レッドトーチ・シアターによるチェーホフ『三人姉妹』をプーシキンハウスの配信で見た。実はこの作品は来日時に仕事の関係でゲネプロを見せてもらったことがあったので、二度目である。ティモフェイ・クリャービン演出で、全てロシア手話で行われる上演である。

www.pushkinhouse.org

 全体に関する印象はゲネプロを見た時とあんまり変わらないというか、現代を舞台にしたエネルギッシュな演出で、マイリー・サイラスなんかの音楽やらスマホの着信音やらを取り込んでいてけっこう独特の音風景を作っているプロダクションだと思う…のだが、ゲネプロで見た時に私が大変、気に入らないと思ったところが一箇所だけあった。それは手話の上演だというのに、手話を見せるためのセット作りをあんまり考えていないように見えたことである。終盤はちょっとよくなるのだが、序盤はかなり家具の多いセットで、客席の位置によっては遮られてしまって手の動きがよく見えないところがあった。さらに火事の場面などは照明を落としすぎて動きじたいがはっきり見えないところがあった。私はとくに手話がわかるわけではないのだが、手話の上演なのに手の動きが遮られてしまって見えないというのは、音声言語の上演で角度によってはセリフが聞こえなくなるというのと似た状況で、ちょっと見ていてイライラした(字幕がつくのでだいたいはわかるのだが)。たしかにリアルなセッティングだと家具があるからある程度見えづらくなるのはしょうがないんですよと言われてしまってはそれまでだが、芝居なんだからもうちょっとどの客席からも登場人物がしゃべっているところが見えるようにしてほしいと思った。

 一方、こういう記録映像で見ると、カメラが動いている人物にかなり寄ってくれるので障害物を気にする必要がなく、意外と見やすいのに驚いた。ただ、「Aさんが話していて別のところでBさんが動いている」場面があり、そういうところでたまに別のところで動いているほうのBさんにカメラが寄るところがあり、それはすごい違和感…というか、音声のセリフだとBさんに寄っても音は聞こえているからとくに不自然さがないのだが、手話だとAさんの発話が一切、わからないのにBさんの動きが見えてAさんがしゃべっているというふれこみの字幕だけが出ていて、非常に変な感じがする。これは手話劇だと撮影の際に気をつけたほうがいいのかもしれない。

 

ESRAの「シェイクスピアと音楽」セミナーに参加します

 ESRA (ヨーロッパシェイクスピア研究協会)のヴァーチャル大会(6/3-6/6)の「シェイクスピアと音楽」セミナーに"Shakes Like Jagger: How the Rolling Stones Handled the Legacy of the Globe Theatre"というペーパーを出します。ローリングストーンズのコンサートのセットにグローブ座がどういう影響を与えているのかということを論じたものです。

esra2021.gr

劇中劇『十二夜』あり~『青山オペレッタ THE STAGE~ノーヴァ・ステラ/新しい星~』(配信)

 『青山オペレッタ THE STAGE~ノーヴァ・ステラ/新しい星~』を配信で見た。青山にある由緒あるオールメール歌劇団が新人でシェイクスピアの『十二夜』を上演する、という設定の芝居である。前半が新人のオーディションとか、後半が『十二夜』のダイジェスト+レビューという構成になっている。ラジオ番組とかドラマCDを組み合わせたメディアミックスプロジェクトで、出演しているのは2.5次元若手俳優とか声優などだということだ。本来はお客さんを入れて上演する予定だったが、緊急事態宣言のせいで無観客配信のみになった。

stage-aoyamaoperetta.com

 お芝居にレビューがついているという構成や、組システムをとっているあたり、明らかに宝塚などの少女歌劇からヒントを得た設定である。新人が大半を占める新しい組ノーヴァが立ち上がることになり、100期生が奮闘するという内容である。前半のオーディションパートで、ベテランの加賀見(友常勇気)が、舞台慣れした自分が出るよりも未熟でも新人を育てて観客が成長についていってくれるようなやり方でカンパニーの人気を盛り上げたいと発言するところがあり、まあ日本でよくある、あんまりできあがっていない若手のアイドルを「推し」として育てるみたいなコンセプトを劇中で暴露している。そういうわけで、歌とかはかなり改善が必要というか、オペレッタを冠した名前の劇団にしてはちょっと…というところも多い。演技はそんなに悪くないところもあるのだが、2組に分かれて行うオーディションの優劣をわざわざ周りの人が台詞で説明するみたいなところは(この手のものではよくあるが)蛇足だと思った。

 劇中劇『十二夜』のほうはものすごくカットされており、ダイジェストみたいな感じである。マライアもフェステも出てこないし、マルヴォーリオいじめはけっこうトーンダウンされている。ちょっと深刻になりがちなマルヴォーリオいじめはともかく、正直なところ100年やってる名門歌劇団がフェステ(プロダクションによってはこの役がスターの役だということもあるくらい大きい役だ)の出てこない『十二夜』の翻案をやるとは思えないのだが、まあ若手俳優ばっかりだとフェステみたいな歌も歌えて笑わせることのできる、ちょっと年配の上手な道化役みたいなのは出しにくいのかもしれない。

 というわけで、いろいろ言いたいことはあるが、一番興味深いのは、こういうメディアミックスプロジェクトみたいなやつで、オールメールのカンパニーが第一弾としてやる芝居としてまず出てくるのがシェイクスピア劇だということである。アイドルがやるシェイクスピア劇みたいなのは最近わりと事例があり、日本におけるシェイクスピア受容のひとつとしてけっこう特徴あるものなのではないかと思う。こういうところにシェイクスピアが出てくるというのは、シェイクスピアがなんらかの権威を帯びているのと、あともともとオールメールだから男だけとか女だけでもやりやすいと思われているところがあるんだろうなと思う。

アメリカのつらい家族劇~『詩人かたぎ』(配信)

 アイリッシュレパートリーシアターの『詩人かたぎ』(A Touch of the Poet)を配信で見た。ユージン・オニールの戯曲をアメリカのアイルランド関連戯曲専門劇団がソーシャルディスタンシングを行いながら撮影したものである。

www.stream.theatre

 舞台は1828年の7月のある日、マサチューセッツ州にあるパブ(アメリカなのでパブと言わないのかもしれないが、とりあえず人を泊めたりお酒やごはんを出す店)である。主人であるアイルランド系移民のコーネリアス・メロディ(ロバート・クッチオーリ)は見栄っ張りで自分がさも立派な人間であるかのように装っているが、実際は一家は火の車である。妻のノーラ(ケイト・フォーブズ)はそれでも横暴な夫を愛しているが、娘のセアラ(ベル・エイクロイド)はアメリカの現代娘で父をあまりよく思っておらず、ボストンの富裕な家の息子であるサイモンとの結婚を目論んでいる。

 役者は全員別撮りであとで合成したらしいのだが、なにしろしょぼくれた居酒屋を舞台に繰り広げられるちょっと密室的な芝居なので、背景が書き割りっぽくてもそこまで違和感がないというか、ちょっと変な感じでもまあ許そうかという気になれる。演技のほうも別のところで撮ったとは思えないくらいしっかりしている。映像編集はすごく大変だったと思われる。

 内容はいかにもユージン・オニール的なアメリカの家庭悲劇で、私が苦手なつらい感じのお話である。メロディ家の親父さんが今風に言う有害な男らしさまっしぐらな人で、ひとりで家族全員を不幸にしている。何も知らずにサイモンのお母さんに性欲丸出しでカマをかけてしまうあたりは見苦しいことこの上ないし、終盤の自爆というか愛馬を撃ってしまうあたりのイヤな感じもすごい。背景にはアイルランド系移民に対する差別とか、自由の国であるはずのアメリカにも厳然と存在する階級差別なんかがあるので、アメリカが見ないことにしておきたい弱点を掘り下げた芝居とも言える。とにかく最初から最後まで非常につらい話で私は苦手なのだが、まあアメリカ人は本当にこういう「お父さんのエゴがつらい」みたいな話が好きだなと思う。

王、道化、記憶のない父~The Visiting Hour (配信)

 ダブリンのゲイトシアターの有料配信で、フランク・マクギネスの新作The Visiting Hourを見た。カトリーナ・マクローリン演出で、父役のスティーヴン・レイと娘役のジュディス・ロディの二人芝居である。ダブリン時間で無観客ライヴ配信なので、眠い目をこすりながら深夜に見た。

www.gatetheatre.ie

 新型コロナが流行っている現在が舞台で、かなり認知症気味でケア施設に入っている父親に娘が面会にくるという話である。二人の間にはアクリルかなんかの透明な壁があり、施設での面会時間も60分に制限されていて、芝居の上演時間もだいたいそれくらいだ。父はかなり昔のことを覚えておらず、さらに実際には起こっていないことやいなかった人のことを実際にいたと思い込んでいたりするので、話がなかなかかみ合わない。

 人のいない暗い劇場がライトアップされているところから始まるのだが、この様子はちょっとロウソクで照明をとるブラックフライアーズ座(近世ロンドンの室内劇場)あるいはそれを模してロンドングローブ座の中に作られたサム・ワナメイカー・プレイハウスみたいな感じで、なかなか雰囲気はいい。そこに出てくるスティーヴン・レイ演じる父はロン毛にフリルみたいな服を着ており、王様みたいに見える時もあればピエロみたいに見える時もある。たぶん元気な時はとてもユーモアにあふれていて音楽や賑やかなことが好きな人だったのだろうという感じで、娘の前でもよくおどけたりふざけたりしている。王で道化だという点ではちょっとリア王みたいなキャラクターなのだが、だいぶ記憶が混濁している。娘はそんな父親のことを思っているが、たまに「もう面会はやめようか…」みたいなことを口にしたり、父親の病気をつらく思っている。

 主演2人の演技は申し分ないが、座っている人が会話するだけで動きがなく、また内容も真面目でつらいものなので、深夜に時差ぼけで見るにはあんまり適していない。さらに私はフランク・マクギネスは優れた作家だとは思うが得意だと思ったことがないので、全体的にけっこうキツいと思う芝居ではあった。テーマも深刻だし、人を選ぶと思う。

80年代ロンドンのゲイシーンを描いたよくできた一人芝居~Cruise (配信)

 ストリームシアターの有料配信でCruiseを見た。ジャック・ホールデン作・出演で、ホールデンがとっかえひっかえいろんな役を演じる一人芝居である。ショアディッチタウンホールでの無観客上演を撮影したものだ。

www.stream.theatre

 舞台は現代ロンドンで、性的マイノリティ向け電話相談のボランティアを始めたジャックがマイケルという男性から80年代のソーホーの話を聞くという枠がある。マイケルは地方からロンドンに出てきたゲイの若者で、80年代ソーホーのゲイシーンに馴染み、真剣に愛せる恋人デイヴも見つかって幸せだったが、1984年2月29日(閏年)に自分もデイヴもHIV陽性だということがわかる。4年くらいしか生きられないと言われたデイヴとマイケルは人生を満喫しようとするが、デイヴは2年しか生きられず、『トップガン』が上映中の映画館で倒れて亡くなってしまう。落ち込むマイケルはふとしたことから出会ったゴードンとの会話で生きる気持ちを取り戻す。自分の最後の夜になるかもしれない1988年2月29日にマイケルは悔いが無いよういろいろな人に会い、馬鹿騒ぎもするが、結局生きのびることになる。

 上演を撮影したものにしては照明や撮影などがとても上手で、ロンドンの小さい劇場でやっているクィア系の新作の臨場感がそのままつたわる映像になっている。ホールの通路をオールド・コンプトン・ストリートに見立てるなど、場所の使い方もうまい。舞台にはホールデン以外に音楽を担当するジャック・エリオットがいて、ホールデンが歌ったり踊ったりするところもあり、ちょっとミュージカル風だ。

 台本も大変しっかりしたもので、既に2020年代の若者にはあまりピンとこなくなっている80年代のソーホーの雰囲気がよくわかるようになっている。80年代のエイズ禍は既に歴史の一部なので、けっこう風化してしまったり、また逆に実際よりも恐ろしくみんな死んでしまった惨事みたいに誇張されがちだが、そのへんのバランスをきちんと考えて、大変だったがちゃんと生き残った人もいるのだ、というところで新型コロナウイルスが流行する現在につなげる展開はたいへんうまい。さらにCruiseというのはゲイスラングのクルージングだろうと思って見ていたら、途中でまさかの『トップガン』パロディが出てきて(ホールデンがけっこうトム・クルーズの真似がうまい)ダブルミーニングだったのか…とわかるあたりもなかなかユーモアがある。主演のホールデンが実に芸達者で、くるくるといろんなキャラクターを演じ分けるのも魅力的だし、とても面白い作品だった。