内容は大変よいが、音声が…木ノ下歌舞伎『義経千本桜ー渡海屋・大物浦ー』(配信)

 木ノ下歌舞伎『義経千本桜ー渡海屋・大物浦ー』を配信で見た。多田淳之介演出で、今年3月の東京公演を撮影したものである。配信映像には最後の木ノ下裕一による解説もついている。

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 私はもともとの『義経千本桜』を見たことがないのだが、最初にダイジェストみたいに簡単に源平の争いの経緯を説明するようなセクションがついており、前提がわかるようになっている。壇ノ浦で没したはずの平知盛佐藤誠)、安徳天皇(立蔵葉子、配信を買うまで知らなくてビックリしたがこの役者さんは私の大学の同級生である)、典侍局(大川潤子)が実は生きていて、船宿の主のふりをした知盛が義経(大石将弘)に復讐を企てるというものである。

 セットは斜めに傾けたいくつか穴のある板である(映像で見るといまいち傾き方がはっきりしないのだが、けっこう急らしい)。壇ノ浦の戦いのところでは赤っぽい照明に赤い布が上から振ってきて、海戦で波が血に染まる様子を表現している。以前に見た『心中天の網島』同様、現代劇っぽい台詞と歌舞伎らしい台詞が両方出てきて、山場は歌舞伎らしく見せるようにしている。

 たぶんもとの「渡海屋・大物浦」とは違うところなのだろうという気がするのだが、この作品は序盤で一度、壇ノ浦で平家の人々が一度全員亡くなったことが示され(しかも一番最初に安徳入水のフラッシュフォワードみたいな演出もある)、終盤でまた典侍局や知盛が自殺するので、全体的に死をやり直すみたいなお話に見える。本来ならば壇ノ浦でこうした人々の命というのは尽きていたはずなのだが、典侍局や知盛はそれこそ亡霊のように、過去にとらわれた残された余りみたいな命を生きている。とくに知盛は、現代風に言うと激しいPTSDにかかっているように見える。義経との戦いという形で壇ノ浦を生き直した後、安徳天皇義経が復讐の悪循環を断ち切った時に2人は亡くなってしまうわけだが、これは成仏という点である種の幸せな終わり方なのだろうと思った。とくに知盛は一度目と二度目の死に方が明らかに繰り返しで、きちんと死を生き直すとでもいうような結末になっている。

 というわけで内容は大変面白かったと思うのだが、音声の撮り方のバランスが非常に良くない。全体的に現代のポップスなどがたくさん使われており、大音量で音楽をかけながら台詞を言うみたいなところが多いのだが、音楽はけっこう一定した大きい音量で流れる一方、台詞はひとりひとりマイクをつけているわけではないので音量にけっこうムラがあり、音楽と一緒に流れるとあんまりよく聞こえない。この作品はほとんどミュージカルみたいな音作りでできている作品だと思うので、配信にする場合は音量のバランスをもうちょっと良くするか、あるいは日本語字幕をつけるべきだろうと思う。

『鴨東通信』に舞台芸術アーカイヴ化についての記事を書きました

 思文閣出版が出している『鴨東通信』のリレー連載「二〇三〇年の人文科学」に、舞台芸術アーカイヴのことを書きました。書誌情報は以下の通りで、pdfが無料ダウンロードできます。

北村紗衣「リレー連載6:先読み!二〇三〇年の人文科学ー儚いもののアーカイヴ化」『鴨東通信』112、2021年4月号、思文閣出版、16-17。

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ちょっと展開が強引では?~『アンモナイトの目覚め』

 『アンモナイトの目覚め』を見てきた。実在の人物である19世紀の古生物学者メアリー・アニング(ケイト・ウィンスレット)と、やはり実在の人物で地質学者だったシャーロット・マーチソン(サーシャ・ローナン)のロマンスを描いた作品である。監督は『ゴッズ・オウン・カントリー』のフランシス・リーがつとめている。

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 ライム・リージスで化石や貝殻を集めて観光客に売る仕事をしている古生物学者のメアリーは、ひょんなことから地質学者であるロデリック・マーチソン(ジェームズ・マッカードル)の妻シャーロットの面倒をみることになる。熱病にかかったシャーロットの看病をきっかけに2人は親しくなり、やがて愛し合うようになる。しかしながらシャーロットは夫ロデリックのもとに戻らねばならず…

 主演2人の演技や、海をとらえた撮影の綺麗さについては文句がないのだが、展開じたいはけっこう強引だと思った。メアリーがシャーロットと恋に落ちるまでの顛末にちょっと無理があり、全体的に男性がわがままに振る舞うせいで女性同士が逃げるように恋に落ちてしまうというような印象を受けてしまう。まず、メアリーとシャーロットの出会いはロデリックがお金を払って妻の世話をメアリーに押しつけたからで、2人は男性のせいで一緒に過ごすようになった。さらにシャーロットの看病についても、メアリーが医者のリーバーソン先生(アレック・セカレアヌ)に押しつけられたのがきっかけである。さらにシャーロットは夫のせいでメアリーと離れてロンドンに戻らなければならないということで、この作品における出来事のきっかけはたいてい男性が作っており、2人のヒロインが主体的に行動して事態が変わるようなところがあんまりない(これはこのへんのレビューでも指摘されていることで、やっぱり『燃ゆる女の肖像』と比較するとけっこう台本の洗練度が低いような気がしてしまう)。

 あと、もうひとつ気になったのは、地質学や化石に関する専門知識はかなりあったはずのシャーロット・マーチソン(オクスフォード伝記事典にのってるくらいで、私の母校の科学記事でも紹介されており、無名の素人ではない)があまりにも世間知らずに描かれているような気がするというところだ。この映画ではシャーロットは化石好きの夫にふりまわされて鬱気味の気の毒な若妻みたいな感じで出てくるが、実際はシャーロット自身がかなりの教養人で年ももっと上だし、フラフラしていた夫ロデリックを研究の道に導いた原動力だったらしい。夫同様、化石や地質にはとても詳しく、メアリーとは研究仲間みたいな感じだったようだ。それだけ学問に対する情熱があり、フィールド調査の重要性も理解しているであろうシャーロットが、最後でメアリーに対してあんな行動をとるかな…とちょっと疑問に思う。2人が恋人同士だったということについては史実の裏付けがないらしいし、こういうちょっと強引なロマンスものにするくらいなら、結婚して研究を続けるシャーロットと、独身主義のメアリーが立場は違っても女性の学者として強い友情で結ばれる、みたいな話にしたほうがむしろよかったのでは…と思った。

デレク・ジャーマンの真似は危険~『テスラ エジソンが恐れた天才』

 『テスラ エジソンが恐れた天才』を見てきた。マイケル・アルメレイダがイーサン・ホークと組んだニコラ・テスラの伝記である。これまではこの組でシェイクスピア映画などを作っていたが、これは実在の人物が主人公である。

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 アルメレイダ本人も認めているのだが、全体的にすごくデレク・ジャーマンっぽい。あんまり直線的にテスラの人生を追う伝記ではなく、ところどころで史実ではないお遊びみたいなものが入ったり、21世紀の事物が出てきたりする。21世紀の事物が出てくるのはテスラという人物の極めて現代的なヴィジョンを示唆する上で有効だとは思うし、面白いところもいくつもあるのだが、なんというかデレク・ジャーマンみたいな独創的な監督の真似をして伝記を撮るのは危険では…という気がした。ジャーマンは超独特のセンスで歴史ものに現代の事物を入れてもちゃんとまとまるように作っていたと思っていたのだが、なんというかこの映画はたまに妙にふつうの伝記映画に寄るところがあって、そこがあんまり一貫していないように見える。イーサン・ホークとかエディソン役のカイル・マクラクランが、デレク・ジャーマンっぽい映画に出るにしてはちょっとアメリカの色男スター風味がありすぎるのかもしれない(2人ともアート映画の貴公子みたいな位置づけではあると思うのだが)。とくにイーサン・ホークは『ブルーに生まれついて』みたいなわりとストレートな伝記映画でも非常に力を発揮するタイプなので、ホークがテスラ役で出てくると芝居が王道すぎてなんとなくそぐわない感じがするところもある。

正統派の若々しい上演~東京グローブ座『ロミオとジュリエット』

 東京グローブ座で森新太郎演出『ロミオとジュリエット』を見た。

www.romeoandjuliet2021.jp

 以前に同じ東京グローブ座で森新太郎がやった『ハムレット』同様、全体で3時間以上ある。ふつうの『ロミオとジュリエット』に比べるとかなりカットが少ないのだが、それでも細かいところはカットしており、たいていカットされるジュリエットの急死騒ぎの後で楽士たちが退場するところはなくなっている。また、マキューシオが死ぬところは原作だと瀕死のままマキューシオが退場してその直後にロミオにマキューシオが亡くなったという知らせをベンヴォーリオが持って入ってくるのだが、このプロダクションではマキューシオは退場せずに舞台上で死亡している。これはたまにある演出の変更である。おそらく初演時は暗転や幕を使った場面転換ができず、舞台上でキャラクターが死亡すると誰かが担いで運び出さないといけなかったはずなのだが、その手間を省くためにマキューシオが退場して死ぬようにしていたものと思われる(この直後にロミオとティボルトの決闘が続くので、舞台上のど真ん中に死体があると危ないし)。しかしながら今の広くていろいろな方法で場面転換できる舞台ではこれはとくにやらなくてもよいので、マキューシオが舞台上で死ぬ演出はたまにある。

 こういう細かい変更以外は、少なくともメインのキャラクターについてはかなり正統派で、今のロンドンのグローブ座がよくやっているような感じの演出である。笑うところは笑わせ、最後はきちんと悲劇的にまとめている。ロミオ役の道枝駿佑は18才、ジュリエット役の茅島みずきが16才ということで、台本の年齢設定に近く、たぶん私が今まで舞台で見た中でも一、二を争う若いロミオとジュリエットではないかと思う(映画だとオリヴィア・ハッシーとレナード・ホワイティングが撮影開始時に15才と17才、翻案である『火の接吻』に出た時のアヌーク・エーメが16才くらいだと思う)。キャピュレット夫人役の太田緑ロランスもけっこう若い母親で、おそらくもとの台本でジュリエットが14才にもならず、母親のキャピュレット夫人も30才になっていないというのは実際の女役が若かったことに起因するものだろうから、これくらい若い母娘というのはたぶん最初の設定のイメージに近い(初演では男性が女役だったが)。なにしろ若い役者2人なのでセリフ回しなどについては未熟なところもずいぶんあるが、周りのベテランが補佐して主筋は奇をてらうような演出も避け、全体的に若さで突っ切るようにしている。新型コロナウイルス流行のせいなのか、役者が若すぎるせいなのか、セクシーさは全然ない演出なのだが、幼い恋の描き方としてはまあ正解だと思う。

 最後はロンドングローブ座よろしくみんなで踊るのだが、道枝がひとりだけけっこうダンスがうまかった。とくにダンスが売りのジャニーズではないらしいのだが、やはり仕事でいつもやっているとなるとリラックスした感じがにじみ出るようだ。シェイクスピアでももっと踊ったりするような役(『お気に召すまま』のオーランドーとか)をやったらいいのではと思った。

 ちょっと疑問なのが、マキューシオ(宮崎秋人)が白塗りでピエロみたいな雰囲気だったり、ピーター(和田慶史朗)がやたら目立つように道化にしてあったり、脇の人物を妙にサーカスっぽくしようとしているところだ。とくにピーターが膝で歩く演出はイマドキどうかと思った。低身長症のキャラクターを出したいなら低身長症の役者を雇うべきだと思うし、膝で歩いているのがわかって非常に不自然である。主筋がこれだけ王道の演出なので、脇でこういうふうに変な工夫をしないほうがいいと思った。

 それからジュリエットが仮死状態になるところで、手に薬の瓶を持ったまんまにしているところは良くない。ベッドを出さずにジュリエットを座った状態にしているせいで、ジュリエットが飲んだ薬瓶を隠すところがないのである。ふつうは飲んだ後にベッドに落ちるとかなんとかで薬瓶が見えなくなるか、あるいは見つけた乳母かロレンス修道士が薬瓶を隠すという演出があるのだが、この上演では薬瓶を持ったまんまなので、どう見ても自殺(仮死状態になっているだけなのだが、見かけは自殺)なのにみんなが気付かないフリをしているみたいで不自然である。

面白いと思うのだが、人にすすめづらい~『何を見ても何かを思い出すと思う』(配信)

 コンプソンズ『何を見ても何かを思い出すと思う』を配信で見た。

www.compsons.net

 2010年代の下北沢を舞台に、演劇とか映像とか、とにかく下北沢っぽいものにかかわる人々が右往左往する作品である。主催の金子鈴幸の実体験をもとにしているそうで、出てくる人々もかなり等身大な感じ…なのだが、たぶんお芝居じたいはこういう説明から想像するものとだいぶ違う内容である。時空がいろいろわざと乱してあって、意図的にあんまりしっかり筋が通らないようなシュールな感じに作られていて、なんだか昼間に居眠りしてしまった時に見る夢みたいな構成になっている。ちょっとロバート・アルトマンとか『作者を探す六人の登場人物』みたいな雰囲気である一方、自分の体験を消化しようとしつつ完全には突き放せなくて苦笑や郷愁を捨てきれないみたいな感じの作品で、私は面白いと思うのだが、非常に人にすすめづらい。あと、私はここに出てくる固有名詞がほとんどわからなかったので、内容をつかみ切れていないところがあるかもと思う。

能舞台の撮影はなかなか難しい~鮭スペアレ『リチャード三世』(配信)

 鮭スペアレ『リチャード三世』を配信で見た。坪内逍遥訳『リチャード三世』を能舞台で上演するというものである。全部通しでやるのではなく、一部の場面を抜き出した短い公演である。

syake-speare.com

 正直、コンセプトとして示されている「肉体を持たないリチャードがリチャードであり続けるための「儀式」の形を借りた演劇」という解釈については私はピンとこないのだが(身体のあるキャラクターから離れるみたいな解釈でシェイクスピアをやってもそんなに面白くならないと思う)、坪内の台詞をきちんと消化してやっているところや、音楽の使い方、わりと工夫のある衣装などは良かった。ただ、能舞台を撮るというのはちょっと大変だと思った。何しろ奥の方が暗くなるし、けっこう引いて撮らないと全体の様子がよくわからない。