東京グローブ座で森新太郎演出『ロミオとジュリエット』を見た。
以前に同じ東京グローブ座で森新太郎がやった『ハムレット』同様、全体で3時間以上ある。ふつうの『ロミオとジュリエット』に比べるとかなりカットが少ないのだが、それでも細かいところはカットしており、たいていカットされるジュリエットの急死騒ぎの後で楽士たちが退場するところはなくなっている。また、マキューシオが死ぬところは原作だと瀕死のままマキューシオが退場してその直後にロミオにマキューシオが亡くなったという知らせをベンヴォーリオが持って入ってくるのだが、このプロダクションではマキューシオは退場せずに舞台上で死亡している。これはたまにある演出の変更である。おそらく初演時は暗転や幕を使った場面転換ができず、舞台上でキャラクターが死亡すると誰かが担いで運び出さないといけなかったはずなのだが、その手間を省くためにマキューシオが退場して死ぬようにしていたものと思われる(この直後にロミオとティボルトの決闘が続くので、舞台上のど真ん中に死体があると危ないし)。しかしながら今の広くていろいろな方法で場面転換できる舞台ではこれはとくにやらなくてもよいので、マキューシオが舞台上で死ぬ演出はたまにある。
こういう細かい変更以外は、少なくともメインのキャラクターについてはかなり正統派で、今のロンドンのグローブ座がよくやっているような感じの演出である。笑うところは笑わせ、最後はきちんと悲劇的にまとめている。ロミオ役の道枝駿佑は18才、ジュリエット役の茅島みずきが16才ということで、台本の年齢設定に近く、たぶん私が今まで舞台で見た中でも一、二を争う若いロミオとジュリエットではないかと思う(映画だとオリヴィア・ハッシーとレナード・ホワイティングが撮影開始時に15才と17才、翻案である『火の接吻』に出た時のアヌーク・エーメが16才くらいだと思う)。キャピュレット夫人役の太田緑ロランスもけっこう若い母親で、おそらくもとの台本でジュリエットが14才にもならず、母親のキャピュレット夫人も30才になっていないというのは実際の女役が若かったことに起因するものだろうから、これくらい若い母娘というのはたぶん最初の設定のイメージに近い(初演では男性が女役だったが)。なにしろ若い役者2人なのでセリフ回しなどについては未熟なところもずいぶんあるが、周りのベテランが補佐して主筋は奇をてらうような演出も避け、全体的に若さで突っ切るようにしている。新型コロナウイルス流行のせいなのか、役者が若すぎるせいなのか、セクシーさは全然ない演出なのだが、幼い恋の描き方としてはまあ正解だと思う。
最後はロンドングローブ座よろしくみんなで踊るのだが、道枝がひとりだけけっこうダンスがうまかった。とくにダンスが売りのジャニーズではないらしいのだが、やはり仕事でいつもやっているとなるとリラックスした感じがにじみ出るようだ。シェイクスピアでももっと踊ったりするような役(『お気に召すまま』のオーランドーとか)をやったらいいのではと思った。
ちょっと疑問なのが、マキューシオ(宮崎秋人)が白塗りでピエロみたいな雰囲気だったり、ピーター(和田慶史朗)がやたら目立つように道化にしてあったり、脇の人物を妙にサーカスっぽくしようとしているところだ。とくにピーターが膝で歩く演出はイマドキどうかと思った。低身長症のキャラクターを出したいなら低身長症の役者を雇うべきだと思うし、膝で歩いているのがわかって非常に不自然である。主筋がこれだけ王道の演出なので、脇でこういうふうに変な工夫をしないほうがいいと思った。
それからジュリエットが仮死状態になるところで、手に薬の瓶を持ったまんまにしているところは良くない。ベッドを出さずにジュリエットを座った状態にしているせいで、ジュリエットが飲んだ薬瓶を隠すところがないのである。ふつうは飲んだ後にベッドに落ちるとかなんとかで薬瓶が見えなくなるか、あるいは見つけた乳母かロレンス修道士が薬瓶を隠すという演出があるのだが、この上演では薬瓶を持ったまんまなので、どう見ても自殺(仮死状態になっているだけなのだが、見かけは自殺)なのにみんなが気付かないフリをしているみたいで不自然である。