ヒロインを不必要にかわいそうに描かない~『リスペクト』

 『リスペクト』を見てきた。アレサ・フランクリンの伝記映画である。

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 アレサ・フランクリンジェニファー・ハドソン)の歌手としての波乱の生涯を描いたものである。幼い頃から才能に恵まれた歌手だったが、(おそらく性的虐待の結果として)子どもを2人産んだ後、父である厳格なC・L・フランクリン師(フォレスト・ウィテカー)の影響もあり、なかなか歌手としてヒット曲を出せずにいた。父の影響から離れて業界人のテッド・ホワイト(マーロン・ウェイアンズ)と一緒になる。苦労の末にマッスル・ショールズ・スタジオで行ったセッションから道が開けるが…

 アレサが父や夫などの干渉をはねのけ、ミュージシャンとして成長する様子を丁寧かつドラマティックに描いた作品である。この手の映画としては非常にきちんとミュージシャンとしての楽曲制作過程や成長を描いており、言われれば何でも器用に歌えるがゆえになかなか独自色を出せなかったアレサが、有名なマッスル・ショールズ・スタジオでやっと音楽的にうまがあうミュージシャンたちと会って自分らしい曲作りを発見する様子が生き生きと描かれている。ジェニファー・ハドソンが演じているのでもちろん歌は折り紙付きだ。途中でダイナ・ワシントン(メアリー・J・ブライジ)が若手をいじめるみたいな振る舞いをするのかと思ったら実はアレサをけっこう気にかけてくれていて…というオチの展開があり、このへんはステレオタイプなディーヴァぶりになっていなくて良いと思った(ただ、これは実際はアレサじゃなくエッタ・ジェームズとダイナ・ワシントンのエピソードだそうで、アレサはワシントンから楽屋が汚いと怒られたそうだ)。

 この映画のもうひとつのポイントとして、アレサをできるだけ「犠牲者」っぽく描かず、徹底的にソウルの「女王」らしく描いているというところがある。性的虐待はほのめかされてはいるのだが、虐待じたいの場面は出てこない。家庭内での虐待などの描写もこの手の作品としてはわりと控え目だと思う(それでも非常にイヤな感じはするのだが)。また、この手の映画としてはミュージシャン自身がエグい人種差別を受けて犠牲者になるというような場面があまりなく、全体的にヒロインをかわいそうな目にあわせて同情をかき立てようというようなことをしていない。かわりにこの映画がやっているのは、才能がありすぎるアレサを阻む構造的な問題を描くことである。なかなか売れないのはマーケティングや、なんでも歌える器用な黒人女性歌手のクリエイティヴィティをきちんと引き出せていない制作体制が原因として描かれており、人種差別よりはむしろ構造的性差別のほうが大きいファクターとして出てきている(もちろん人種差別も相当に影響はしているのだが)。一方でアレサが公民権運動に積極的に参加している様子が描かれているのだが、わりと意識的にアレサは構造的な人種差別と戦っているのだというような描写になっていると思う。全体的にこの作品は女王が構造的差別と戦うお話だ。

 そういうわけで非常に意欲的な映画ではあるのだが、ひとつだけ私が残念だったのは、ボディポジティヴ運動に関連するような話題が出てきていないことだ。アレサはとてもデカくてゴージャスな女性だったのだが、体重をいろいろ言われてダイエットをするなど、体型に関する悩みはそこらの女性同様にあったはずだし、また一方で太っている女は不細工だなどという偏見を吹き飛ばして華やかな衣装を着こなす、体型を気にする女の子(とくに黒人の女の子)にはロールモデルになる女性だったと思う(ジェニファー・ハドソンも体重のことを言われてダイエットした経験がある)。しかしながらそういうことはこの映画では一切、触れられていない。最近のボディポジティヴの動きを考えると、そのへんを少しでもいいから組み込んでもらえたらよかったのなぁと思う。

『シモーヌ』Vol. 5に寄稿しました

 『シモーヌ』Vol, 5に寄稿しました。日記特集で、17世紀のシングルマザー、ビジネスウーマン、詩人だったキャサリン・オースティンについて寄稿しています。書誌情報は以下のとおりです。

北村紗衣「一七世紀のロンドンでババア呼ばわりに抗うーキャサリン・オースティンの生活」『シモーヌ』5(2021)、49-52。

 

 

セットや衣装にも気を配ったしっかりした上演~『カプレーティとモンテッキ』

 日生劇場で『カプレーティとモンテッキ』を見てきた。こちらはベッリーニのオペラで『ロミオとジュリエット』と同じお話を原作にしているが、かなり内容も味わいも違う。ライヴ上演ではないが、ジョイス・ディドナートがロメオ役の上演が配信されており、そちらを見たことがある。今回の上演は粟國淳演出、鈴木恵里奈指揮によるものである。 

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 剣が刺さった壁みたいな背景があるセットで、この壁は真ん中で分割して動かすことができ、これを使っていろいろな場面の背景を転換している。おそらくカプレーティ家とモンテッキ家の政治的分断を示唆するために、こういう分割できる壁みたいなセットにしたのだろうなと思った。衣装はわりとルネサンス風で、正攻法でしっかり見せる感じの舞台である。最後のカプレーティ家の墓所の場面では透明な仕切りの後ろにジュリエッタが横たわるところから始まり、けっこう幻想的で不穏な感じなのだが、そこでロメーオ(加藤のぞみ)とジュリエッタ(オクサーナ・ステパニュック)が一緒に亡くなるところを見せることにより、分断とそれに対する抵抗を示そうとしているのかなと思った。

 珍しくオーケストラに近い前方(ただしすごく右寄り)の席で見たせいだと思うのだが、最初はパーカッション(トライアングル?)の音がやたらデカく聞こえて慣れるまで時間がかかったものの、音楽は大変ドラマティックで良かったと思う。当日配布のプログラムにも詳しく書かれていたが、わりと伴奏がシンプルで美しいメロディを強調する感じの音楽である。テバルド(山本耕平)がシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』よりかなり大きい役で、大活躍していた。

 シェイクスピア劇よりはるかに政治的な要素がはっきりしており、シェイクスピア劇ではロミオはまだ少年と言っていいような若さでたいして政治のことも考えずに恋のことばかり考えているのだが、この作品ではロメーオが最初から若いながらもモンテッキ家の政治闘争にかかわっていて、かなり政治劇らしくなっている。このあたりはプログラムにある原基晶先生の解説にも詳しく説明されており、観劇の上で役に役に立った。ただ、これは前に配信で見た時も思ったのだが、シェイクスピア劇に比べるとジュリエッタの主体性が弱くなっているように感じられるのは気になる。作られた時代の趣味の問題なのだろうか…

 

「『詩のトリセツ』刊行記念イベント 批評って役に立つんですか?」が公開されました。

 小林真大さんによる『詩のトリセツ』(五月書房新社、2021)の刊行オンラインイベントである「『詩のトリセツ』刊行記念イベント 批評って役に立つんですか?」に出ます。11/15より配信で、録画です。以下から見ることができます。

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wezzyで新刊の試し読みが公開されました

 連載をしているwezzyで新刊『批評の教室ーチョウのように読み、ハチのように書く』オンラインイベントにあわせて試し読みが公開されました。タイトルの付け方に関する節の公開です。11/21のオンラインイベントのほうもよろしくお願い申し上げます。

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作られた50年代~『Home, I'm Darling~愛しのマイホーム~』

 ローラ・ウェイド作の芝居『Home, I'm Darling~愛しのマイホーム~』をシアタークリエで見てきた。白井晃演出で、2018年イギリス初演の芝居の日本初演である。

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 主人公のジュディ(鈴木京香)は失業して以来、専業主婦として夫のジョニー(高橋克実)と一緒に完全に1950年代風の家、調度品、衣装、食べ物などで統一したライフスタイルで暮らすようになった。フェミニストである母のシルヴィア(銀粉蝶)は娘の暮らしぶりを肯定しないが、ジュディはこれが自分がやりたいことだからと行って行動を曲げない。ところがだんだん50年代風の暮らしにもほころびが出てきて…

 家庭回帰というのは『ハウスワイフ2.0』が出たくらいからよく耳にする(とは言えかなり特殊ではある)傾向なのだが、この芝居はノスタルジアに潜む危険をブラックユーモアで包んだコメディである。ジュディは1950年代というのはいい時代だった…と過去を理想化しているが、途中でジョニーの若い上司であるアレックス(江口のりこ)が指摘しているようにゲイとかだったらたぶん暮らすだけで大変だった時代だし、医療も今ほどすすんでいなかった。さらにこれは母のシルヴィアが指摘していることだが、イギリスでは1954年まで食料の一部第二次世界大戦の影響で配給制だったくらいで、戦争による打撃から回復するまでかなり時間がかかっていた。ジュディが暮らしている可愛らしい50年代風の家とか家具はたぶんアメリカのテレビドラマなんかに出てくるそこそこリッチなミドルクラス以上の家庭を模したもので、イギリス人が経験していた1950年代とは全然違う。50年代には、イギリスの家庭では冷凍庫はもちろん家庭用冷蔵庫すらそこまで普及していなかったはずである(1959年でイギリスの家庭の13%程度が冷蔵庫を持っていたらしい)。ジュディはほとんどイギリスに存在していなかった作られた過去に対するノスタルジアにしがみついて暮らしているわけであり、そこにこのお話のダークさがある。

 全体的にはけっこう笑えて、ジュディを演じる鈴木京香を初めとする役者陣も悪くなかった。ただ、場面が変わるところで音楽がかかって登場人物が踊るのだが、そこはあんまりダンスが板に付いていないというか、ちょっとわざとらしい感じがした。

北村紗衣×橋迫瑞穂トークイベントが終了しました

 北村紗衣『批評の教室』× 橋迫瑞穂『妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ』刊行記念トークイベントが終わりました。お越しくださった方々、どうもありがとうございます。

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