好みの点ではあんまり…『クラメルカガリ』(試写)

 『クラメルカガリ』を試写で見た。『クラユカバ』のスピンオフということで同じ世界観で展開する。ビジュアルはけっこう面白いところもある…のだが、ありがちな少女ものみたいな感じで『クラメルカガリ』よりもあんまり印象に残らなかった(こういうのが好きな人は非常に好きなのだろうな…と思うところはある)。

下剋上とはいえ、けっこうキツい話でもある~『中村仲蔵~歌舞伎王国 下剋上異聞~』(配信)

 源孝志作、蓬莱竜太演出『中村仲蔵~歌舞伎王国 下剋上異聞~』を配信で見た。

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 有名な歌舞伎役者で、歌舞伎一門の出身ではないものの出世して日本の舞台芸術史に名をとどろかせることになった初代中村仲蔵藤原竜也)の伝記ものである。伝記とはいえ現代風な作りで、使っている言葉などもカタカナ語があったりする。有名な『仮名手本忠臣蔵』の逸話(中村仲蔵が革新的な役作りで演出を変更してその後の演出が変わった)の前には、あまり『忠臣蔵』に詳しくない現代のお客のための解説タイムもある。このため、全く予備知識がなくても楽しく見ることができる。

 最後は仲蔵が大成して役者仲間からも尊敬されるようになるサクセスストーリーなのだが、全体的に梨園出身ではない役者に対する差別・偏見が強調して描かれており、なかなかキツいところも多い話である。とくに最初でいきなり仲蔵が八百蔵(市原隼人)から悪質な性暴力を受け、それでも周りからは生え抜きでない仲蔵が歌舞伎界で身を立てるためには必要…みたいなことを言われてしまう場面はショッキングだ。しかも演じているのが藤原竜也で、いつもながらエモーショナルにへこんでいるので実に可哀想である。さらにその後も暴力的ないじめを受け続ける…のだが、もそもそ養母に虐待みたいな英才教育を受けていたのもあって仲蔵はなかなかへこたれないたちで、冷遇されて自殺を考えるような状況に追い込まれても、発想と工夫と演技力で勝負してひっくり返し続ける。見ていると観客は仲蔵を応援したくなる…ものの、性暴力やいじめが乗り越えるべき障壁みたいになってしまっているのは、たとえ今の歌舞伎界のハラスメント体質を暗に批判しているとしてもちょっと暴力の扱いが軽くないかなぁ…という気はする。仲蔵は成功したからいいが、たぶんいじめられてつぶれた役者もたくさんいたのだろうと思ってしまう。

ロンドン(6)ウィリアム・モリス・ギャラリー

 ウォルサムストウにあるウィリアム・モリス・ギャラリーに行って来た。ウィリアム・モリスが非常に若かった頃に家族の家だったところで、後に出版業者のエドワード・ロイドのものになったらしい。現在は美術館で、無料で入れる。

ロイドパークという公園の端にある。

モリスの人生や業績に関する展示がいろいろある。

日本の民藝の特設展をやっていた。

木彫りの熊もいる。

池田宏によるアイヌの人たちの肖像写真も展示されていたのだが、英語の説明にセイコマのことが書かれておらず、日本に住んでいる人とイギリスに住んでいる人だと読み取れる情報量が違ってくるなぁ…と思った。

ロイドパーク入り口。

 

ロンドン(5)サンボーン・ハウスとレイトン・ハウス

 サンボーン・ハウスとレイトン・ハウスに行ってきた。このふたつの博物館は数年前に大幅に改修されて2022年に新規お披露目となった。レイトン・ハウスは学生時代に行ったことがあってお気に入りの博物館なのだが、サンボーン・ハウスは初めて行った。ホランド・パークの周りの地域は、ヴィクトリア朝には芸術家がたくさん住んでいる地域だったらしい。

 まずはサンボーン・ハウス。ここは『パンチ』のイラストレーターのリンリー・サンボーン一家が住んでいた。

とても手の込んだ家である。

サンボーンのスタジオ。

主寝室にかなりちゃんとしたシンクがある。

 次がレイトン・ハウス。画家のフレデリック・レイトンの家で、レイトンは初めて画家として貴族になった人らしい。現在はレイトン・ハウスとサンボーン・ハウスと共同で展示などもやっている。

とにかく豪勢な家である。

家の中に池みたいなのがある。

新たに展示スペースとカフェもオープン。展示スペースではサンボーン一家の女性たちのお買い物やドレスについての展示をやっている。

 この近くにタワー・ハウスという史跡指定されている家があり、ここの現在の持ち主はジミー・ペイジである。

ケネス・アンガーが地下をジミーから借りて住んでたとかいう話もある。

お隣も史跡指定されており、たぶん今の持ち主はロビー・ウィリアムズ。

 

「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」連載を書肆侃侃房に引き取っていただくことになりました

 wezzyで連載していた「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」ですが、wezzy閉鎖に伴い、書籍版の版元である書肆侃侃房に引き取っていただくことになりました。引取手が見つかってよかったです。書籍版に再掲されていないものについては全てこちらで公開されています。

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 書籍版もよろしくお願い申し上げます。

 

 

やさしさに向き合えるようになるまで~『アイアンクロー』(試写、ネタバレ)

 『アイアンクロー』を試写で見てきた。既に公式サイトに推薦コメントを書いているのだが、とりあえず簡単に感想を書いておこうと思う。

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 アメリカのプロレス界で有名な一家であるフォン・エリック一家を追った伝記ものである。父親のフリッツ(ホルト・マッキャラニー)は息子たちに厳しいプロレスの英才教育を行い、ケビン(ザック・エフロン)、デイヴィッド(ハリス・ディキンソン)、ケリー(ジェレミー・アレン・ホワイト)、マイク(スタンリー・シモンズ)は皆プロレス業界にかかわるようになる。ところが兄弟は次々と不幸に見舞われる。

 私は試写に行くまでのこの一家の名前を全くきいたことがなく、他の登場人物も一切名前も知らなかったのだが、それでもものすごく面白かった。もともと私はよく知らないスポーツとかビジネス業界を知らない人にもわかるようにわかりやすく描いた映画が好きなのだが(『PLAY! 勝つとか負けるとかは、どーでもよくて』とか『ラッシュ/プライドと友情』とか)、これもそういう映画で、プロレスを全く理解していなくてもわかるように作られている。ただ、たぶんプロレスがわかる人はもっと面白いのだろうと思う。

 全体的に兄弟がどんどん不幸になり(ビックリするほど不幸続きだが、これでも抑え気味にしているらしい)、その背景には厳しい父親が子どもたちに寄せる期待とプレッシャーがあり…ということで、私が勝手にGreat American Domestic Tragedy(「偉大なるアメリカの家庭悲劇」、アーサー・ミラーとかユージン・オニールとかオーガスト・ウィルソン)と呼んでいるタイプの非常にアメリカ的な作品である。フォン・エリック兄弟の間にはお互いを思いやる気持ちと強いライバル心の両方があるのだが、小さい時からプロレスその他のスポーツばかり仕込まれてきたフォン・エリック兄弟は、身体能力は高くてもそういう私生活の悩みに対応するだけの精神の余裕みたいなものがほとんどない。ガタイはそこそこいいがみんなそれぞれ少年がそのまま大人になったような性格である。

 その中でもとくに家族思いでやさしく真面目な主人公のケヴィンがいろいろ割りを食ってしまうという展開なのだが、ケヴィンを演じるザック・エフロンの演技がとにかくいい。筋トレしまくって体型まで変わっている凄まじい役作りだが、むしろ役者として凄いと思うのは体型の豹変ぶりよりも、自分の感情を正直に表現できないケヴィンの孤独や不器用さを控えめに表現しているところだ。ケヴィンは「強い」男性になることを子どもの時から父親に求められてきたせいで、自分のやさしさ、寂しさに向き合うことを許してもらえず、男は泣いたりわめいたりして感情を露わにしないものだという抑圧をずっと心に抱えて大人になった。そのためにケヴィンはあまり自分の気持ちを外に出さず、人のことを気遣っていろいろやろうとはしているのだが、そもそも自分の気持ちじたいをきちんと理解できていないフシがあるので気遣いも空回りしてしまったりする。妻パム(リリー・ジェームズ)と子どもたちのことを心配して、いきなりとても深刻な顔でうちは呪われてるから別れたほうがいいんじゃないかとか言い出すあたりは、そういうケヴィンの未熟で不器用な性格を表している。そんなケヴィンが最後にやっと家族の前で涙を見せて、自分のやさしさに向き合えるようになるところに非常に心を動かされた。

 なお、展開上大事なのかもしれないと思うのが、フォン・エリック兄弟は、すくなくとも最初のほうは全然モテないということである。とくにケヴィンはトレーニング以外はほとんど趣味もないような堅物で、ファンのパムが近づいてきてもろくに会話すらできず、パムにぐいぐい引っ張られて結婚する。私の偏見かもしれないが、プロレスラーなんていうのはモテるもんだと思っていた…ものの、フォン・エリック兄弟が全然女の子と付き合わないというのは、ひょっとしたらなかなかこの兄弟が他のド派手でアクの強いスタープロレスラーみたいになれないことに関連しているのかもしれない(ケリーのガールフレンドは最後に出てきたが、全然真面目に付き合っていない)。モテるモテない以前にこの兄弟はどうもソーシャルスキルが低く、あまり家族の他にお友達もいないみたいな感じすらするし、好かれたい相手に自分をアピールするのがあんまりうまくない。この中ではケヴィンだけが押しが強くてしっかりしたパムと結婚して、父親以外の家族を持つことができ、救われる…のだが、その点ではこの映画は、立派な女性の助けがないとなかなか男性は「男らしさ」の罠とでもいうべきものから逃れることができないというお話でもある。