ナショナルカミングアウトデーでありかつ国際女子の日であるらしい本日はちょっとセクシュアリティについて語る言葉の歴史的変遷について考えてみたかったりしないわけでもないので、John Harrington Smith, The Gay Couple in Restoration Comedy (Harvard University Press, 1948) [ジョン・ハリントン・スミス『王政復古喜劇のゲイカップル』]をとりあげようと思う。これ、王政復古喜劇の古典的な研究書なのに日本のアマゾンにないらしい。
で、これタイトルが「ゲイカップル」なのだが、男や女の同性愛者のカップルのことはひとっつも出てこないで、ずーっと17世紀後半から18世紀初めにイギリス演劇で流行したヘテロの男女の丁々発止のやりとり中心の喜劇を論じている。というかこの頃の王政復古喜劇と呼ばれるジャンルの芝居には、うちらが考えるようなゲイカップル、つまり『クィア・アズ・フォーク』とか『Lの世界』に出てくるみたいなゲイのカップルは全然出てこない(同性愛がにおわされている作品とかはないわけではない)。これはいかなることか。
と、いうのも、gayという英単語はかつては「陽気な」「愉しい」「華やかな」というような意味で使われており、「同性愛の」という意味が広まり始めたのはOEDによるとせいぜい1920年代頃である。アメリカのメジャー映画で最初に'gay'という言葉が「同性愛の」という含みで使われたのは1938年の『赤ちゃん教育』だと言われているが、これもたぶん観客の大部分はダブルミーニングに気付かなかったんじゃないかと思う。
↓その場面。
この本が書かれたのは1948年で、ジョン・ハリントン・スミスはオタクな研究者であまりスラングなどに詳しくなかったのか、それとも面白がってこういうタイトルにしたのかはよくわからないのだが(たぶん前者…?)、とりあえずこの本はヘテロの男女を愉しい2人という意味でゲイカップルとひたすら呼び続けている。スミスによると演劇におけるゲイカップルというのは最初っから仲がよいわけではなく敵対する関係から始まり、丁々発止の恋愛ゲームの末に愛し合うようになり結ばれる男女のカップルであり、古くはシェイクスピアの『から騒ぎ』などに見られ、王政復古期に多いに発達した。スミスは触れていないが、上で引用した『赤ちゃん教育』とかも直球のゲイカップルもので、いまだにこういうストーリーはラブコメの王道である。この本はこういうゲイカップルの恋愛ゲームにおける会話術とその歴史的変遷・衰退を丁寧に追ったものである。
で、この本は超基本書でゲイカップルについて語るならこれを読まないといけない本ではあるのだが、既にあとの研究で乗り越えられている箇所もたくさんる。スミスは寝取られとかきわどいやりとりが満載の艶笑喜劇が廃れてもうちょっと感傷的な恋愛劇が好まれるようになるという18世紀イギリス演劇における流行の変化を道徳的で恋愛ものが好きなご婦人方の影響力の増大に求めているのだが、このご婦人方の道徳志向及び影響力を過大評価する傾向はデイヴィッド・ロバーツのThe Ladies: Female Patronage of Restoration Drama, 1660-1700によりかなり説得力を持って論駁されている(ロバーツの議論に対してもいろいろ批判はあり、とくに女性客の影響力を今度は過小評価してるんじゃないか、っていう話はあるが)。あとスミスは役者研究のほうにはあまりいっていないのだが、この一大ゲイカップルブームを創り出した立役者の一人であるネル・グウィン(貧しい生まれからチャールズ二世の愛人になったイギリスの伝説的舞台スター)などについてはエリザベス・ハウのThe First English Actresses: Women and Drama, 1660–1700が詳しい。