輪廻転生と革命は両立するの?〜『クラウド・アトラス』

 『クラウド・アトラス』を見てきた。見ている間は面白かったのだが、一言で言うと「舞台でやれ」って感じの話だった。

 話はとりあえず6つの時代が異なるストーリーラインが同時に進行し、それぞれの話を化粧やしゃべり方を変えた同じ役者が別の役として出て来て演じる、というものである。テーマは輪廻転生で、人種とか性別を超えた普遍的な人間性、誰にでもある自由を志向する気持ち、みたいなものを扱っており、一人の役者がいろんな人種や性別に変身するのもそういうコンセプトに基づいている。

 で、ひとつひとつの話はかなり面白いし、とにかくコンセプトが壮大で明確なのはいいと思うのだが、最後まで見てよく考えると「やっぱりこれはうまくいってないんじゃないか」という気が強くした。私が問題だと思ったのは二点で、(1)人種の扱いがよくない(2)そもそも輪廻転生と革命とか自由、平等とかのテーマは合わない ということ。

 まず(1)だが、既にアメリカの映画サイトなどで言われているように、2144年のネオソウルの挿話が全体的にひどい。一番視覚的にひどいのはジム・スタージェスその他につり目メイクでアジア人をやらせていることで、この化粧が全くアジア人に見えないのである。コンセプト的にスタージェスその他の役をアジア人の役者にやらせるというのは無理にきまっているんだから、もっとアジア人の特殊メイクに資源を投入すべきだったと思うのだが、この質の悪さは怠慢だと批判されても仕方ないと思う(ハリィ・ベリーをユダヤ人にする化粧にかけた労力に比べてアジアメイクをないがしろにしすぎ)。あとそもそも『ラスベガスをぶっつぶせ』で実話のほうではアジア人だったはずの人の役をやって批判されたジム・スタージェスをこういう役に使うこと自体ちょっとキャスティングとしてまずいだろというのもある。まあ全体的にテレビゲームみたいなのっぺりした質感が独特なので、それにあわせてわざわざ化粧をのっぺりさせた、というとこもあると思うのだが、二重まぶたで目にすごい存在感があるベ・ドゥナ(まるっきり東アジア人顔なのに所謂西洋人が考える「アジア顔」とはほど遠いじゃん?)と並ぶとなんかものすごい違和感がある。あるいは最初っから全然メイクしないほうがまだマシだったかも…2144年なら国際化がすすんで白人の血をひく人が朝鮮半島にもっといっぱい住んでてもおかしくないかもしれないから、そっちの設定に力を入れて回避するという手もあったかもしれない。あとたぶんこういうミスマッチ感は、人種や性別よりも役にあっているかが最も重要でその点もっと虚構としての強い約束事が通用する舞台では簡単に回避できるんだけど、映画ではやっぱり難しいな…

 あとこのネオソウルの話は全体的に陳腐な東アジアイメージの複製にすぎないのも良くないと思う。最初ソウルが出て来たのを見て「ああ、これ美術的に『ブレードランナー』の真似になるのを避けようとして日本とかじゃなく新しい東アジアの都市としてのソウルにしたんだろうな。あとペ・ドゥナのサイボーグ的な魅力がウォシャウスキー姉弟トム・ティクヴァの好みにすごく合うからかな」と思ったのだが、しばらくデザインを見てると『ブレードランナー』ともウォシャウスキー姉弟の『マトリックス』とも正直そう違わなくて、わざわざ朝鮮半島にした意味が美術的にあまりわからなかった(いや、ペ・ドゥナはすごく演技いいと思ったんだけど)。平たい質感は特筆すべきかもしれないけど、他のセグメントに比べると美術に「どっかで見た」感がかなりあるのが良くない。
 しかしながら最後まで見ると政治的に「あ、これ北朝鮮が頭にあるから舞台がソウルなんか…」と気付いてしまって結構「…」となってしまった。東アジアにクローン美女がいて全体主義っぽい国家で搾取されてて…っていう筋自体、なんか西洋のオリエンタリズムを批判なく複製してる感じで気にくわないし、さらにあのクローン美女集団に北朝鮮の美女の軍団とかを重ね合わせたりするとアメリカ人が朝鮮半島に抱いているのであろう何とも言えない「国同士の区別もあまりつかないんだけどなんか気味悪いものとしての東アジアのどっか」というイメージが腹にこみあげてきて若干気持ち悪いよな…

 さらに私がもうひとつ人種・民族という点で疑問だと思ったのは、ティモシー・キャヴェンディシュの挿話でのスコットランドアイルランドの扱いである。あれ、作家のダーモット(トム・ハンクス)とその一家のギャングはアイリッシュだと思うんだけど(すごいわかりにくい訛りでしゃべってたな)、あの「無教養なアイルランド人ギャング」というステレオタイプはOKなのか…?さらにさらに気になるのは、老人たちが老人ホームを逃げ出してスコットランドイングランドのサッカーがテレビ放映されてるパブに行き、そこで追っ手に追い詰められるという場面である。それまでほとんど何もしゃべらず足手まといだったミークスおじいさんが「イングランド人からうちらを守ってくれ!」と演説して、そこでスコットランドのサポーターが追っ手と乱闘を始める。これはもちろん最近のスコットランドナショナリズムを背景にした描写でその点では『スカイフォール』とも共通してると思うのだが、ちょっとスコットランドナショナリズムを戯画化しすぎではないかという気がする。まあ見ていて面白い場面ではあるんだけど…ちなみに音楽家の挿話ではフロビッシャー(ベン・ウィショー)がスコットランドで自殺するのだが、なんかスコットランドっていうのは最近のビッグバジェット映画においてはものすごく危険な場所なんだな。

 で、えんえんと人種の議論をしたあと(2)の論点にうつりたいのだが、これ、「輪廻転生」というテーマは人種の平等、自由、革命というテーマにあってなくないか?まあ私がオールドタイプな唯物論者であって輪廻転生とかよしてくださいと思っているということもあるのだろうが、いろんな人が別の人種とか別の性別、あるいは政治的思想や善悪の傾向が違う人に転生する…という発想は現世における革命とか、自由や平等を求める倫理的葛藤の価値を相対化しかねないものなのではないかと思うのである。例えば19世紀に悪徳医者だったトム・ハンクスは未来の挿話ではいろいろトラブルを抱えてはいるが最後に良いものを守ろうと頑張った男として出てくるのだが、なんかこれ私の感覚だと「万物流転ですね!」「来世ではいい人に生まれて幸せになることもできますよ!」みたいな感じでひどく諦念を誘うというかなんというか、なんかネオソウル挿話のベ・ドゥナのメッセージとはうらはらに現世でのやる気を失わせかねないストーリーラインではないかと思うのである。「他の人生では違う人種や性別の人に生まれるかもしれないしねぇ」というメッセージもポジティヴだしまあそういう考えの人がいるのは当然だと思うのだが(とくにラナ・ウォシャウスキーは男性から女性になったわけで、たぶんめちゃめちゃ輪廻転生の考えを突き詰めて検討したんだろうと思う)、私には何かナイーヴに見えるし、さらにそういう相対化が東アジア人とかアイルランド人のステレオタイプ的描写を正当化するのに使われているような気すらして居心地悪い。さらに私はサイバー思考とヒッピーっぽいスピリチュアル思考が容易に結びつく傾向をなんかうさんくさいとも思っているので(この2つの結びつきは一定の意義があるものだとは思うが)、まあそういう意味でこの映画が受け入れられないっていうこともあるのだろうと思う。

 最後に一言言っておくと、ベン・ウィショーはいいと思う。ウィショーは一人の人物(ボブ・ディラン)を多数の役者が演じる『アイム・ノット・ゼア』にも出ていて、たぶん似た作りの映画としては『アイム・ノット・ゼア』のほうが良くできてると私は思う。