ミュシャvs会田誠〜天才でもごめんなさい、あるいはなぜ画家は素人から見ると全く身の丈にあわないように見える分野に手を出そうとするのかについて

 森美術館と森アーツセンターギャラリーで「ミュシャ財団秘蔵 ミュシャ展 パリの夢 モラヴィアの祈り」展と「天才でごめんなさい:会田誠」展をあわせて見てきた。会田誠展は言わずと知れたスキャンダルを巻き起こしている一方、少なくとも私の観測範囲ではミュシャ展はかなり評価が高いらしい。


 で、この2つの展覧会は同じ建物で行われているだけで一見全く共通点がないように見えるが、私はこの展覧会を続けて見てなんか同じ問題を提起しているように思った。まず、会田誠ミュシャ(っていうかチェコ語に近い発音だとムハ)もたぶん画力自体は並外れていると思うのだがなんか超独特の変態的女性像をひたすら描いている。ふたつめに、個人的にどっちも大変すごいと思うのだがあまり好きではない。三つめに、私のようなズブの素人の目からすると、2人とも自分の身の丈にあわないジャンルにわざわざ手を出して失敗してるように見える(←あくまでも素人の感想ね)。


 ムハのほうは、画家の全体像を歴史的背景の中で初心者にもわかるよう明確に示そうとするめちゃめちゃ気合いの入ったキュレーションで、広告や演劇ポスターなどとスラヴ叙事詩両方を各コーナーごとにわかりやすく見せることでナショナリストでありスラヴ主義の夢を見る大衆のための芸術家であるモラヴィアのムハの姿を浮かび上がらせよう、というものである。で、最初のほうのリトグラフの広告デザインとかはまあ好き嫌いはあると思うのだが純粋にすごい。「これがアール・ヌーヴォーのデザインか!」みたいな感じで、とくにサラ・ベルナールの舞台姿を描いた演劇ポスターとか「束の間の美を凍らせて保存する」という表現がぴったりである。ところが後半部分、名声を得て祖国のために尽くそうとして描いた「スラヴ叙事詩」とかになると、まあ画力自体はすごいんだけれども「これチェコの人以外にとってはまあ単なるキレイな歴史画にすぎないんじゃないのか」という疑いが頭をもたげてしまって、どうも前半の超個性的で100メートル先からでも匂いでかぎ分けられそうなポスターデザインに比べると見劣りするような気がしてしまった。おそらくムハにとっては祖国の窮状とかスラヴ主義の理想というのは自分の存在に関わることで非常に高邁な動機に奮い立たされて歴史画を描いたんだろうと思うのだが、やたら作り手の思い入れがこめられたものというのは他人(とくにコンテクストがわからない素人)にとってはそこまで面白くないものになってしまうということはよくある。ムハのポスターの女性像というのは自分の趣味とモデルの魅力、一般大衆の好みを少し距離をとって考えつつうまいこと冷静に分析して描かれたものでかなりバランスがとれているように思うのだが、スラヴ叙事詩の時期のものはなんかあまりそういう感じがしない。とくに私がそれを感じたのは、スラヴ叙事詩を描いた時期の絵でも、それに関連する宣伝用のポスター(国家行事関連のやつとか、展覧会のお知らせとか)だけはやっぱりリトグラフですごくムハっぽいスタイルだということである。ムハは大衆のための芸術家でありたいと思っていたそうだが、そりゃスラヴ叙事詩だってすごいのかもしれないけど、ムハが大衆の芸術家として記憶されるのはあの超独特な親密感があるリトグラフのポスター、輝くばかりに美しいサラ・ベルナールの広告であって、スケールの大きい歴史画ではないんじゃないだろうか?


 一方で会田誠のほうは、前半の叙事詩的な大作(展覧会サイトにも「バカみたいな大作」の話が出て来ている)のほうはすごく面白いと思ったんだけど、正直言って問題になっている「犬」みたいなのは単に寒い…というか「なんでコイツこんなただの妄想絵画を剥き出しで描いてるんだ」みたいな感じでちっとも面白いと思わなかった。これは私がかねがねいろいろな芸術分野について考えていることなのだが、大きいスケールのものを描くべき人が自分のちまちまとした個人的な性的妄想とか家庭的なことがらとかに終始していてもちっともすごいものはできない、というかはっきり言って寒い。とくにユーモアとか冷静な距離感などで客体化されていない剥き出しの性的妄想ほど寒くてつまらんものはめったにないし、自分では滑稽さとか諷刺の精神があるつもりで描いてるのに客が見ているぶんにはさっぱりそれが伝わらず全く笑えない、などということになるとその悲惨さたるや計り知れないものがある(つまり、大勢の客を前に滑ったのだ)。いくらある分野で秀でていようとも、身の丈にあわないものに手を出して面白くなかった、ということになればそれはもう天才でもごめんなさいである。この「スケール感のおかしさ」についてはカーメン・カリルが作家のフィリップ・ロスを批判して言っている私の好きな批評があるのでそれをちょっと引用したい。

[ロスは]頭が切れて、荒っぽくて、面白可笑しいけど、狭い範囲にしか手が届きません。ジェーン・オースティンやソール・ベロー、ジョン・アップダイクみたいな意味じゃないですよ。こういう作家はものすごく広いコンセプトとか概念を伝えるために狭いカンヴァスを使っているからです。ロスは自分自身を探究することについては素晴らしくよくできるけど、他にはほとんど何もないんです。自分に夢中で自分が大好きだからそこが小説家としての限界なんですね。そういうことだから、ロスはちっぽけなことをするのに大きなカンヴァスを使うけど、そのちっぽけなことが大海なみの場所をふさいでしまうわけです。(拙訳)
Carmen Callil: Why I quit the Man Booker International panel

 それで、まあたぶんムハのスケール感をおかしくするのは彼自身の燃えるスラヴ主義であり、会田誠のスケール感をおかしくするのは彼自身の客観視されてない性的妄想なんだろうな…と思いながらこの2つの展覧会を見終わった。まあそれで全く絵に詳しくない素人の感想からすると、なんで画家ってやたら新しいことを「これこそ自分がやりたかったことです!」的な意気込みでやって失敗するんだろう、継続は力なりって言うじゃないか…と思ったりするのだが(さらにその「これこそ自分がやりたかったことです」的意気込みになんか怪しい反大衆的ナルシシズムを感じたりして私は眉に唾をつけてそういう展覧会を見に行くのだが)、まあそのへんは絵画の専門家に分析していただきたいところである。ちなみに、この「新しいことやって大失敗」現象については、ダミアン・ハーストの'No Love Lost, Blue Paintings'を見て以来思っていたことである(この展覧会に行った時に私の頭に「描けねえ画家はただのブタだ」というお告げが降りてきて、それ以来この文句は私の頭から離れない)。


 なお、この2つの展覧会を比べると、展示の構成のほうはムハが抜群に良かったと思う。まあ過去のことで研究が進んでいるということもあるだろうが、何も知識がない人が行ってもかなり楽しくムハのことをわかった気になって帰って来られる構成だと思った。