なんなんだこの終わりは〜蜷川幸雄、オールメール『ロミオとジュリエット』

 蜷川幸雄、オールメールロミオとジュリエット』を見た。途中までは非常に良かったと思うのだが、最後があまりにもひどくかった…好みの問題だと思うがふざけんなって感じだった。

 他のオールメールと同様、ヨーロッパふうの衣装や舞台美術で、モンタギュー家の息子ロミオ役が菅田将暉、キャピュレット家の跡取り娘ジュリエット役が月川悠貴である。プロローグは省略されているが、黒と白で衣装分けした両家の若党たちがヤンキーか暴走族かというようないでたちで切り結ぶスピード感あふれる第一幕第一場から最後まで、カットもあまりせずじっくり若い恋人たちの悲恋を見せる。

 全体的に、この若い恋人たちにこそ理があることを強調し、社会や親たち、周りの者たちがいかにひどい圧力をロミオとジュリエットにかけているか、ということに重点を置いた演出だと思う。初日ということもあって全体的に役者の台詞回しがぎごちなく(ガートルードがまるっきり台詞を忘れちゃったのには驚いた)、主演二人の滑舌にもちょっと難があった。とはいえロミオとジュリエットの演技は滑舌以外は問題なかったと思う。私の印象では、ジュリエットも含めてキャピュレット家の人たちはすぐカッとなる一方、モンタギュー家の者のほうが落ち着いているというところがあるのだが、この演出ではロミオが恋にのぼせてそわそわしまくる焦ってばかりの若者である一方、ジュリエットは若さに似合わぬ分別と落ち着きがあるしっかりした若い女性という感じで、少しイメージとは違うがかなり良かった。これはオールメールにしたのがかなり良い方向に働いているのかもしれない…シェイクスピアの後の恋愛悲劇『アントニークレオパトラ』には'[Antony] is not more man-like /Than Cleopatra; nor the queen of Ptolemy /More womanly than he'「アントニークレオパトラより男らしいとは言えないし、トレミーの女王もアントニーより女らしいとは言えない」という台詞があるが、今回の『ロミオとジュリエット』もひょっとしたらこの台詞が通用するような演出なのかもしれず、伝統的には男性に与えられるものとされる理性とか熟考とかいった性質をジュリエットに、また(とくに英国ルネサンスの演劇で)伝統的に女性に与えられている感情や切々たる嘆きの力をロミオに与えているように思った。その点で、若いのに熟練の女形である月川の個性をよく生かして、ステレオタイプ的な男女の性質をわざと反転させるようなキャラクター造形をしていると思った。バルコニーの場面なんかではこの二人の個性をよく生かして、あまりベタベタせずコミカルさをまじえてメリハリのあるラブシーンを演出しており、微笑ましい。

 一方でキャピュレット家とモンタギュー家の面々は、親たちはもちろん若党たちも暴力的で粗野で、とくにマキューシオとベンヴォーリオがかなり粗暴に作ってあると思った(普通はマキューシオをコミカルに作るもんだと思うのだが、この演出ではロミオのほうがちょっと粗野かつコミカルでむしろ普通マキューシオが引き受けるようなおもしろ担当である気がする)。その粗野な雰囲気がよくあらわれているのはパーティの場面で、この演出では女役が乳首丸出しで踊る一方、マキューシオは女の姿に仮装してニセオッパイ丸出しで現れる。全体的にパーティの場面では男たちも女のような服装をしているので、見た目はかなり混乱するし露骨に性的でもある。その中で露出度が低い服装をしているジュリエットと、それに一目で恋してしまうロミオというのがとてもわかりやすいと思った。他の男たちは露出度が低いジュリエットに目もくれないが、ロミオはこのへんちくりんなパーティの中ですぐ、露出度の点では目立たないが自分にとって一番美しいと思えるジュリエットに目を留めたのであり、これは二人の恋がとても激しいものであることを暗示していると思う。


 と、いうわけで、中盤までは演出にいろいろ工夫があり、けっこう後のほうまで楽しく見られたし、最後にいつも物静かなジュリエットが感情を露わにして死ぬあたりは涙を誘われたのだが、最後がとにかくひどい。これから見る人もいると思うので詳しくは言わないでぼかしておくが、別にヴェローナの社会が腐りきっていることは普通に最後まで見ればわかると思うので、あんな意味のわからない演出で強調する必要性を全く感じない。あの最後を見たらほんと、それまでの面白いところは全部忘れて激怒してしまった。まあ好き嫌いの問題だとは思うが、私にとってはああいう演出はくだらん蛇足にすぎないしかなり嫌いである。