「あるトランス女性が見た北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』」に応える

  新刊『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』第4章の「女性映画としてのトランスジェンダー女子映画」について、トランス女性の方から以下のような批判を頂きました。この批評は『タンジェリン』と『ナチュラルウーマン』を扱ったものですが、これについてこちらのブログでは「『タンジェリン』や『ナチュラル・ウーマン』がトランス女性の出演するトランス映画であることに一定の評価はしつつも、そのなかで出てくるステレオタイプ的な女性像などを論難し、全体としては「古くさい」ものと評価するという内容」で、「ありがちなシス(トランスでないひと)がトランスに向ける、差別的と言ってもいいようなもの」だと評しています。

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 私はシス女性であり、トランス女性に対してマジョリティとしての特権性を有する立場にあります。その特権性からトランス女性を傷つけた事態を重く受けとめています。こちらの記事について応答を行いたいと思います。

 この本の論旨は、周縁化されたマイノリティの存在に光をあてるという点でわりと先進的だと思われている作品にもいろいろ保守的なところがある、フツーの映画はみんなマジョリティ(白人で健常者の異性愛男性)が作り上げた価値観を無意識にとりこみがちなところがあるんだ、というものです。まず、こちらのブログ記事についておさえておきたいのは、この記事は「あるトランス女性が見た北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』」と題してはいますが、書店でこの批評だけを立ち読みして書かれたもので、本全部を読んでおらず、かつ手元に本がない状態で書かれたということです。このブログでは私が「トランス女性の映画をあえて単なる女性映画として、フェミニズムの、あるいは女性の歴史のなかに位置付ける」ことをしたのがシスジェンダー中心的だと批判されています。この『タンジェリン』と『ナチュラルウーマン』批評の前の章は女性映画についての章で、シス女性が出てくる女性映画にも古くささがしばしばあることを指摘し、同じような古くささが『タンジェリン』と『ナチュラルウーマン』のトランス女性描写にも見出せる、という流れでした。

 こちらのブログでは、この2作が「古い女性映画の焼き直しだったり、むかしながらのステレオタイプを維持していたりしていて、北村先生の依拠する「歴史」に照らすと古くさい」ものに見えていることを指摘していますが、これはある程度あたってはいるものの、おそらく私が意図していることとはかなり違います。第3章でも『アナと雪の女王』をはじめとする最近のディズニー映画などが、先進的だと思われているが実は保守的なところがある、という議論をしており、さらにそもそもシス女性が出てくる女性映画じたいに古くささがしばしばあることを前の章で指摘していたので、「トランス女性が出てくる女性映画はシス規準だと古くさい」というような受け取り方が出てくるとは全く思っていませんでした。むしろトランス女性もシス女性も、男性中心的な歴史や価値観の基準で古くさい役割を負わされているというところに主眼がありました。ただ、たしかに一方的にシスジェンダーの観点からトランス女性の描写を判断していると受け取られる可能性を排除しつくした記述とはいえなかったと思うので、これはもしこの後重版があればこう受け取られないよう改訂すべきかもと思います。

 

 なお、「古くさい」という語はネガティブな面のみを強調してしまうので、別のところで使った「古典的」のほうが良かったかもしれません。とはいえ『タンジェリン』がコアのところでは"old-fashioned" (オールドファッション)だというのは、英語圏の批評では標準的な見方だと思います。私はこの映画を見た時にハリウッドやヌーヴェルヴァーグをはじめとする古典的な映画をものすごく研究した作りだと思いましたが、ロットントマトズの概要でも"old-fashioned"だと書かれているし、AVクラブなどの批評でもこれは指摘されているところです。映画として"conventional"「伝統的」なところがあるということもしばしば言われており(この記事とか)、こちらの批評ではそもそも監督のショーン・ベイカーは「非伝統的な登場人物に関する伝統的(conventional)な物語を語る」監督だと形容されています。『タンジェリン』批評で指摘した「古さ」というのは、こうした古典的な名作(とくにとりあげたのは『女と男のいる舗道』など)を21世紀の手法で消化している、という意味を含みます。私はこの批評では、基本的に『タンジェリン』と『ナチュラルウーマン』(これも古典的メロドラマの影響が強いと批評でよく言われています)をかなり褒めていますが、すごくよくできていて、権利を奪われた人の声を具体化するような革新性を持っていると思える映画にもいろいろ保守的なところはある、ある程度古典的な要素があるからこそ受け容れられやすいんだ、というスタンスをとっています。批評では最後にこの2本を『クレイジー・リッチ!』や『search/サーチ』と比べているのですが、どれも古典的なプロットをキャスティングや撮り方で一新するというものです。

 

 こちらのブログでは、私が「『タンジェリン』などのステレオタイプ性を批判的に見て」いることについて、ステレオタイプな女性性はトランス女性をエンパワーし得るが、シス女性である私がこれを理解していないと批判しています。これはたしかにシス女性である私が理解しにくいところです。個人的な体験を共有して下さったことにお礼を申し上げます。しかしながら、ブログ記事では私が『タンジェリン』や『ナチュラルウーマン』の何をステレオタイプな女性性として批判したのかには触れられていません。私がこれらの映画におけるステレオタイプとして指摘したのは、ダメ男の恋人を愛する誠実で献身的な女性をヒロインにして、男性に都合がよくなりがちな物語を紡いでいる、ということです。批評でも指摘したように、『タンジェリン』のヒロインであるシンディや『ナチュラルウーマン』のヒロインであるマリーナはとても厚みのあるキャラクターとして描かれているのですが、シンディの恋人チェスターはひどい浮気者だし、マリーナの恋人であるオルランドは良い人なのですが、よく見るとマリーナにふさわしいくらい素晴らしい男性には見えないところがあります。私がこの章で指摘しているのは、『タンジェリン』などはなまじ過去の名作をよく研究した結果としての映画であることもあって、伝統的な女性映画がシス女性に今なお押しつけている古い役割をそのまま引き継いでしまい、今度はトランス女性にも押しつけているのではないかということです。恋人がダメ男でも不幸に耐えて愛し続ける健気さが女性らしさである、というステレオタイプが、エンパワーメントになるでしょうか?言及先のブログでは主に「スカートや長い髪」などの身体、見た目にまつわる女性性を身につけることがエンパワーメントになるということが述べられています。私はこの本の178ページのコラムで『キューティ・ブロンド』をとりあげており、黒や紺の地味な色の服装だと男性社会に同調しているようだから、赤やピンクの明るい色を着ている、という話を書いており、見た目の「女性らしさ」がエンパワーメントにつながりうることは明確にあると考えているので、このポイントには同意いたします。一方、私がこの批評で問題にしているステレオタイプは全て、健気さとか献身のような男性との関係において出てくる「徳」としての「女性らしさ」で、話が男性中心的であることの批判をしています。

 なお、『タンジェリン』のシンディの描き方については、少し方向性が違いますがトランス女性の批評家メレディス・タルサンなども批判しています。ここで言われているのは、『タンジェリン』は他の点ではとても素晴らしい映画だが、トランスジェンダーのキャラクターはシスジェンダーの人物に愛されたがっているものだというステレオタイプ、またトランス女性は精神不安定だというステレオタイプが出てきているということです。シンディの精神の不安定さがトランス女性のステレオタイプだというのは他の批評でも指摘されています。『ナチュラルウーマン』についても、トランス女性の批評家ウィロウ・マックリーが、これだけ魅力あるキャラクターであるマリーナ自身の主体的な声が明確に聞こえてこないような作りであることを批判しています。

 また、私の批評では、『タンジェリン』に出てくるシス男性の登場人物ラズミックの物語が実は男性に都合の良い展開なのではないか、ということも指摘しています。ラズミックはよく考えるといささか困った人なのですが、この映画ではかなり尺を割いて描かれており、見せ場を持って行ってしまいます。これは私が見た時からちょっと疑問に思っていたことで、トランス女性でこれを指摘している人もいます。この批評の主眼は、『タンジェリン』や『ナチュラルウーマン』は意外と男性に都合の良い映画であるという点で「古い」、ということなのですが、言及先のブログ記事ではそこは一切触れられていません。

 

 『ナチュラルウーマン』について私は日本語タイトルを批判していますが、これについて言及先のブログはこう述べています。

 

 しかし北村先生は「自然」というのは不適切で、むしろ自然とか不自然とかを解体する方向に行くべきだと言う。なぜなのでしょう? なぜトランス女性が自然な女性であってはならず、トランス女性について語るにはそうした二分法を解体させるべきなのでしょう? そのとき、では、「自然」が許されるのは誰ですか? シス女性ですか? だとしたら、北村先生はシス女性は「自然な女性」と語りうる(好ましくない語り方だとはしても)が、トランス女性はそのように語り得ず、トランス女性を女性として見るなら自然云々の話自体を解体するしかないと考えている。この背後にあるのが、トランス女性とシス女性はその身体において同等に扱うべきでないという思想でなくてなんなのでしょうか?

 

 「自然」という語り方がたとえ好ましくないとしてもトランス女性に割り当てる余地をシス女性が奪ってはならない、というのは理のある指摘だと思います。一方で、これは私の批評をかなり誤読しているように思うのですが、私はいかなる女性であろうと「自然」だと言うことには抵抗を覚えています。自然/不自然の区別がある世界でも、解体された世界でもトランス女性が女性であることに変わりはない、というのが私の前提ですが、一方で倫理的態度として使いたくないと思っている言葉をトランス女性に使うことはできません。私はそもそも女性を「自然」とか「ナチュラル」と認定することじたいに男性中心的な視点が入りこみ、いろいろな基準で特定の女性を抑圧するものになると考えています。白人でないから、子どもを産めないから、未婚で妊娠したから、といった恣意的な尺度で、特定の女性をなんとなく女性ではないようなものとして扱うのは、歴史的にしょっちゅう起こってきたことで、シス女性も「自然」な女性かどうかの審判にさらされてきました。そもそもヨーロッパ医学の伝統では、女性は人として不完全と思われてきた歴史もあります。トランス女性の恐怖や苦痛を私が理解することはできないし、理解しているフリをするのは不誠実です。とはいえ、シス女性以上に、「出生時に割り当てられた性別が異なるから不完全だ」などという「自然」をめぐる判断の恣意性に苦しめられるのはトランス女性なのではないでしょうか。そうした「自然」は批判しなければならないと思います。

 

 私の批評では『リリーのすべて』は一言くらいしか扱っていないのですが、言及先のブログでは「北村先生は、リリーが「画家ではなく、女性になりたい」と語っていたことを指して、女性を変に幻想的に見ていてよくないという趣旨の批判をされていました」と述べ、私がシス女性であるからこの言葉を批判するのだ、というようなことを指摘しています。しかしながら、この台詞は公開時から広く批判されていたもので、トランス女性のライターであるキャロル・グラントはこの台詞があまりにもステレオタイプ的であり、さらに史実とも違うことを指摘しています。Journal of Bisexualityにのった映画評でも、この台詞が批判されています。私の批評は、こうした現実のトランス女性による評価をふまえた上でできあがったものです。ただ、当然トランス女性の中でも様々な意見がありますし、同じ言葉を発するにせよ、シス女性が発した場合にもつ含みを十分考慮しなかったのは問題だったかもしれません。

  

 ブログ記事に対する応答としては、私の批評が基本的に『タンジェリン』や『ナチュラルウーマン』を高く評価しつつ男性に都合の良い部分を「古くささ」として批判したものである点に触れられていないのではないか、という思いがある一方で、たしかにこの2作品を「古くさい」と評したのは意図が伝わりにくく、シスジェンダー女性である私が書く記述としては不適切でより検討すべきものだったかもしれないと思います。

  なお、この批評を書いた時に少し参考にしたのが、下に張るベル・フックスとラヴァーン・コックスの対談です。ラヴァーンはトランスジェンダーの女優で大スター、ベルはシスジェンダーの有名なフェミニストです。ベルが映像の31分くらいのところでラヴァーンに対して、ラヴァーンのブロンドの髪の毛など伝統的な女性らしさを追究した外見は、白人男性中心的な美の概念に迎合しているのではないか、と聞くことがあります。ラヴァーンは、自分はこういう衣類にエンパワーされているのだ、と答えます。ベルはこれにビヨンセの例を出したりして、社会的に許容されやすい見かけをとることで"greater visibility"、つまりより大きな注目が得られることがあると指摘しています。実在する人であるラヴァーンに目の前でこれを指摘するベルはかなり大胆だと思うのですが、私が作品としての『タンジェリン』とか『ナチュラルウーマン』について考えていることはこれに近いものです。つまり、既にいろいろな映画で見たことのあるようなものを取り入れることで観客にとってより受け容れやすい作品を作ろうという意識があり、それはある種の保守性につながりうるということです。この批評はトランス女性の批評なども参照しながら執筆したものですが、本文中では明示的に参照元に触れていないため、シス女性からの一面的なトランス女性判断であるかのように読む余地を残してしまったと思います。この点については表現を改めることを検討したいと考えています

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