尺が長すぎでは?~『アンナ・カレーニナ』

 Bunkamuraシアターコクーンで『アンナ・カレーニナ』を見てきた。フィリップ・ブリーン台本・演出によるトルストイ作品の舞台化である。

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 序盤はドールハウスのある子ども部屋みたいなところで展開し、場面転換もなく、役者が自分は出ない場面でも後ろの椅子に座っていたり、けっこうごちゃごちゃしている。この子ども部屋っぽさというのは中盤くらいまでの美術に共通しているイメージだと思うのだが、終盤に電灯が導入されて以降はもうちょっとがらんとした感じで空間が使われるようになる。おそらくこのへんはアンナ(宮沢りえ)の心の動きに対応してそうなっていると思われる。最後の重要なポイントである鉄道も、この電灯を使って表現される。

 宮沢りえ演じるアンナと小日向文世演じる夫のカレーニンは大変はまり役で、この2人を見ているだけでチケット代の元はとれるような感じである。たぶんカレーニン夫妻はどっちもかなり年齢による経験もあって複雑な人間で、それに比べるとヴロンスキー(渡邊圭祐)はだいぶ若くて単純だ。そのため、だんだんアンナとヴロンスキーがうまくいかなくなる。映画の『アンナ・カレーニナ』でも夫のカレーニンジュード・ロウ)がえらく複雑な人間だったのだが、たぶんこの作品はもともと同程度に複雑な性格で、そのせいで一応はうまくやっていた夫婦が壊れることがポイントなんだろうと思う。

 ただ、全体的には尺が長くて盛り込みすぎで、焦点がボケがちになっている印象を受けた。小説同様、キティ(土居志央梨)とリョーヴィン(浅香航大)、ドリー(大空ゆうひ)とステパン(梶原善)の夫婦も出てきて主演級で活躍するので、結婚のいろいろな様相を対比するという点では良いのだが、メインプロットのアンナ、カレーニン、ヴロンスキーの話の比重が小さくなっている。このため、アンナが終盤でなぜヴロンスキーとの関係に悩みを抱えているのかということがやや後景に退いてしまっている気がする。アンナの苦しみには当時のロシア社会で女性が置かれていた立場が深くかかわっており、アンナ男女に性道徳のダブルスタンダードを課す性差別的な社会の被害者なのだが、そこの強調があまり明確にできていないので面白みが減っている気がする。休み時間に近くの席にいた人たちが、何しろ長いのでけっこう退屈なところとそうでないところの差が激しい…みたいな感想を言い合っていたのだが、まさにそういう感じで、たぶん長さに制限のある舞台でこの3組の夫婦をちゃんと描こうとすること自体に無理があるのではという気がする。ばっさりカットして尺を短くすべきだったのではないかという気がする。