『ユリイカ』グザヴィエ・ドラン特集に記事を書きました

 『ユリイカ』2020年4月号、グザヴィエ・ドラン特集に記事を書きました。自分史上一番気持ち悪い内容の記事です。

 

北村紗衣「レオナルド・ディカプリオガス・ヴァン・サントのせいでグザヴィエ・ドランと私の人生はメチャクチャになった」『ユリイカ』2020年4月号、pp. 72-79。

 

 

ハイパーリンクと男らしさ~『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』

 『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を見てきた。1969年の東大駒場の900番講堂で行われた三島由紀夫全共闘の討論会に関するドキュメンタリー映画である。

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 TBSに残っていた記録映像をもとに再構成したものだということで、それに解説などがついている。全体的にハイパーリンク映画のような作りで、討論中によくわからない言葉が出てくると、ウィキペディアの内部リンクをクリックするみたいな感じで、解説映像と一緒に東出昌大がナレーションで説明してくれる。69年に共有されていたらしい時事ネタなどが全くわからないのでこの注は絶対必要である。さらに、とくに時事問題などが絡んでいなくても、69年のコンテクストがないとほとんどわからないような議論がわりとあり、これについては平野啓一郎などが三島や全共闘の学生が何の話をしているのかについてまとめてくれる。

 ただ、ハイパーリンク解説の面白さにはけっこう人によって差がある。当時この議論に参加した人や三島の関係者などにコメントをとるのは必要だろうと思うし、東出の情報を入れるナレーションも役立つ。ただ、私はこの手の映画には学者の解説が必要だと思うほうなのだが、正直内田樹小熊英二の解説は必要かな…と思った。三島のように特異な人の話を解説するのには小熊英二はざっくりしすぎているような印象を受けたし、内田樹はまあそう悪くないのだが、平野啓一郎の話のほうが似たような内容をより面白くわかりやすく解説しているような印象を受けたので(三島の再来と言われているだけあって、話もうまいし注ぎ込んでいる知的情熱の量がすごい)、こちらの話をもっとたくさん聴きたいという印象を受けた。

 

 また、おそらくこの映画をそのように見るのはダメだろうと思うし、そういう自分の見方に正直若干の嫌悪を感じるのだが、これはある種のねじれたBL映画なのではと思うくらいものすごくホモエロティシズムに関する映画である。何しろ当事者はご存命の方と、定義が難しいとは思うがおそらくはクローゼットな同性愛者で大変ショッキングなやり方で自殺された方なので、いくらなんでもそのような消費のしかたは無礼だとは思うのだが、そうは言っても何かものすごくホモエロティックなものがあるのに、それに誰も気付いていないフリをすることで成り立っているような映画なのである。とにかく女がほとんど出てこなくて、900番講堂に話を聞きに来ている人のほとんどは男性だし(画面に映っているかぎりでは女性は本当に数名しかいなかった)、主要な人物として出てくる女は性的要素を変なやり方でほぼ剥奪されている尼僧(瀬戸内寂聴)と赤ん坊(芥正彦の娘)だけである。1969年の政治というのがとにかく党派を問わず男性的なものとして提示されており、過剰なヘテロセクシュアル的男性性で武装あるいは偽装した男たちが知性を使ってわいわいがやがややっている映画になっている。三島は知ってのとおりやたら体を鍛え、自衛隊体験入隊し、楯の会を作って「男性らしさ」による武装を行っていた人だし、メインの論敵になるカリスマティックな若い演劇人である芥正彦は赤ん坊である自分の娘を連れてきていて、この2人とも自分の男らしさを900番の壇上でそれぞれ違う形でアピールしている。この2人の間で政治思想は異なっていてもある種の美学が通じてしまうというところにすごいホモソーシャル感(そして誰も口にしないし、したがらないホモエロティシズム)がある。自分でもそんなところに注目しているのはかなり不健全であると思ったのだが、芥正彦が900番の壇上で三島のたばこに火をつけてあげるという腐女子爆釣…というかこの集まりのホモソーシャル性を象徴するような記録映像がある。思想の差異を越えて、身体が身につけた無意識な習慣によって男同士がつながってしまうのである。

 この映画にはご丁寧に「三島と青年」というセクションがあり、三島が楯の会から全共闘まで若者たちとどう接していたかということについての回想がある。みんな真面目にいろいろ三島の美学とか理念とかを話す…ものの、三島のセクシュアリティのことは誰も話さない。この映画の不在の中心はたぶんホモセクシュアリティである。ホモセクシュアリティに言及しないことで成り立つ、エロティックで典型的かつ古典的にホモソーシャルな共同体の映画なのだ。

ツボをおさえたロマンティックコメディ~本多劇場『十二夜』

 本多劇場で青木豪演出、オールメール十二夜』を見てきた。

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 美術などの方針としては以前から青木豪がやっているDステのオールメールシェイクスピアを踏襲した感じで、真ん中にお社がある一方、衣装などは洋風である。演出も笑いのツボをおさえた愉快なもので、爆笑できるドタバタ喜劇らしいところがたくさんある一方、ロマンティックなところもちゃんとある。2013年にやった『十二夜』を相当継承しているが、ドタバタとホロリとさせるところのバランスなどは前よりよくなっているように思った。

 今回の特徴としては、マルヴォーリオ(坪倉由幸)がわりと最初からオリヴィア(納谷健)に対してしつこい態度を示す一方、他の人たちには偉そうでけっこうつきあいにくくて不愉快そうな人である一方、サー・トービー(小林勝也)が飄々とした面白いおっさんで、オリヴィアのお屋敷の人たちの対比がはっきりしているというところがあるかと思う。一方、ヴァイオラ(前山剛久)が大変に女の子っぽい一方でセバスチャン(三好大貴)とかなり立ち居振る舞いや雰囲気が似ており、双子のきょうだいらしいのも良かった。

 一カ所ちょっと気になったのは、もとの台本では最後、オリヴィアとセバスチャンは電撃結婚するということになっているのだが、このプロダクションでは台詞が「婚約」に変わっていた。結婚はちょっと急すぎると思ったのかもしれないが、ここはめちゃくちゃなペースでいろんなことが進むというのがおかしいところなので、別に結婚のままでも良かったのでは…とも思った。

『キネマ旬報』に『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』のレビューを書きました

 『キネマ旬報』に『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』のレビューを書きました。非常にざっくり言うと、恋愛はもうダメだっていう内容です。書誌情報は以下の通りです。

 

北村紗衣「反恋愛映画としての「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY」」『キネマ旬報』2020年4月上旬号、1835号、pp. 10-11。

 

キネマ旬報 2020年4月上旬号 No.1835

キネマ旬報 2020年4月上旬号 No.1835

  • 発売日: 2020/03/19
  • メディア: 雑誌
 

 

年齢不詳のジョン・チョー~『コロンバス』

 『コロンバス』を見てきた。

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 コロンバスで高校を卒業後、図書館で働いているケイシー(ヘイリー・ルー・リチャードソン)は建築が大好きで地元のモダニズム建築に詳しいのだが、一方で薬物依存症だった母親をひとりで置いていけないので街を出ることをためらっている。韓国で働いていたジン(ジョン・チョー)は著名な建築研究者である父が急にコロンバスで倒れたという知らせを受けてアメリカに飛んでくる。2人はひょんなことから出会い、建築の話をしながら親しくなっていくが…

 

 建築オタクのケイシーと、親が建築学者で自然と建築に詳しくなってしまったジンがひたすらコロンバスのモダニズム建築の話をする中で2人の抱えている問題が明らかになっていき、人生が変わっていく、というような話である。建築が持っている癒やしの効果みたいなものと話の内容がけっこうしっかりリンクしている作品だ。主演の2人はもちろん、パーカー・ポージーとかロリー・カルキンみたいな脇を固める役者陣も達者で、コロンバスのモダニズム建築を中心に据えた画面はとにかく綺麗だし、知的でよくできた映画である。ジョン・チョーがめちゃくちゃ年齢不詳なのが効いている…というか、チョーが撮影当時45歳くらい、リチャードソンは22歳くらいで年齢差が20歳以上あるので、普通に撮っているとなんかオッサンが若い娘に…みたいなイヤな映画になりそうなのだが、チョーがあまりにも年齢不詳なのでそういう感じがなくなっているところがいい。とくに面白いのは、韓国系のジンが親と距離を置きたがっているのに対して、アメリカの白人女性であるケイシーが母親の面倒をみることにこだわっているということだ。これは民族的ステレオタイプをひっくり返したような展開だと思う。

 ただ、本当に建築オタクが話しているだけみたいな映画なので、かなり人を選ぶ。いい映画ではあるのだが、他人にすすめにくい作品だ。

言葉の重要性~松竹ブロードウェイシネマ『シラノ・ド・ベルジュラック』

 相変わらずろくにちゃんとした公式ウェブサイトも作っておらず、宣伝にやる気のない松竹ブロードウェイシネマの『シラノ・ド・ベルジュラック』を見てきた。デヴィッド・ルヴォー演出、ケヴィン・クラインがシラノ役、ジェニファー・ガーナーロクサーヌ役である。10年くらい前に撮影されたものらしい。セットは17世紀末のパリの街を模した伝統的なもので、衣装などもわりとオーソドックスだ。

 この演目については、2018年に日本語の舞台を一度見たことがあるのだが、その時に比べるとかなり言葉の力に重点を置いた演出になっているように思った。ケヴィン・クラインのシラノは快男児ではあるのだが、詩人らしいこだわりのある人物で、自分が紡ぎ出す言葉の美しさに絶大な自信を持っているし、詩に対する愛が深い。ひょっとするとロクサーヌ以上に自分の詩を愛しているのかもしれず、また自分の容姿にやたらとコンプレックスを持っているのも、文才、つまり言葉の美しさに対する自信が強すぎることと関係があるのかもしれない。だからこそ若くて颯爽としたクリスチャン(ダニエル・サンジャタ)に自分の言葉を貸すことで、美しい言葉に見合った美しい容姿を手に入れようということを考える。

 しかしながら、シラノが操る言葉の力というのは恐ろしいものだ。シラノの文才は口下手なクリスチャンをあたかも詩の達人のように見せかけ、ロクサーヌの心に実際は存在しない人間(詩才に満ちたクリスチャン)への恋心を生み出す。さらにシラノが口八丁で月から落ちてきた人間のフリをするところでは、いつもは真面目なド・ギッシュ(クリス・サランドン)までちょっと乗せられてしまうといったように、シラノは言葉だけで人の認識とか空間を歪曲させてしまう力を持っている。シラノは言葉の力だけでロクサーヌとクリスチャンと、さらには自分の人生までメチャクチャにしている。『シラノ・ド・ベルジュラック』は、ものを書く人は恐ろしい人心操作の力を持っているという物語である。物書きにつきまとう人というのはたまにいるらしいのだが、書いた言葉が妙な宛先に届いたせいで存在しないものに対する恋心がかき立てられるということはおそらくシラノに限らずたまにあることなのだと思う。

 一方、人の人生をメチャクチャにも幸せにもするシラノの文章の力は、シラノの剣の力よりもはるかに強力だ。その点では『シラノ・ド・ベルジュラック』は、「ペンは剣よりも強し」ということを負の形で悲劇的に示した芝居でもあるわけである。シラノの剣は人を美しくしないが、文才は人を美しくするのであり、価値観を転覆させる強い力を持っている。