小規模なリーディング~『3人ぐらいdeシェイクスピア「マクベス」』(配信)

 『3人ぐらいdeシェイクスピアマクベス」』を配信で見た。3人+リュートだけでやるリーディング公演である。お芝居好きの夫婦と家政婦3人でやるアマチュア演劇という設定なのだが、この設定が要るのかはあんまりよくわからなかった。リュートの生演奏があるのは大変良かったのだが、全体的に本当にシンプルな初心者向けのリーディングという感じだった。

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1本の映画としては面白いが…『ブラック・ウィドウ』(ネタバレあり)

 『ブラック・ウィドウ』を見てきた。久しぶりのMCU公開作で、またアベンジャーズでは古株なのに単立の映画がなかったブラック・ウィドウことナターシャ(スカーレット・ジョハンソン)がやっともらえた主演作である。さらにMCUで初めて女性(ケイト・ショートランド)がひとりで監督した映画でもある(『キャプテン・マーベル』は監督が二人いた)。 

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 物語は90年代半ばのオハイオ州でナターシャとエレーナの小さな姉妹がメリーナ(レイチェル・ワイズ)とアレクセイ(デヴィッド・ハーバー)の娘として暮らしているところから始まる。どこにでもいるようなよくある仲睦まじい家族に見える…のだが、実はこの一家はロシアの工作員で、メリーナは科学者、アレクセイはロシアのスーパーソルジャーで、任務のために偽装結婚していた。一家はS.H.I.E.L.D.の追跡を振り切ってキューバに逃亡し、そこでナターシャとエレーナは養親から引き離されてレッドルームという女性スパイ訓練施設に預けられることになる。もともとその施設にいたナターシャは嫌がるが、無理矢理再入所させられる。

 21年後、ナターシャはノルウェーで逃亡生活を送っていたが、一方でエレーナ(フローレンス・ピュー)はいまだにブラック・ウィドウ(これはナターシャだけではなく組織に所属している女性スパイ全員を指すらしい)として活動していた。逃亡したウィドウを殺した際、そこで摂取した薬品で洗脳が解けたエレーナはこの洗脳を解く薬をナターシャに送りつける。自分が狙われた原因がこの薬だと知ったナターシャはエレーナを訪問しようとする(あるいはケンカを売りに行く)が…

 恋愛などは一切なく、偽装だったはずの家族が親愛の情を取り戻し、姉妹が連帯して女性虐待組織であるレッドルームに戦いを挑む物語になっている。アクションもキレがいいし、お話はわりと心温まるファミリードラマだし、一家を演じる役者陣はみんなよくハマっている。ナターシャは大活躍で、アクションだけではなく、話術で相手から知らないうちに情報を引き出してしまういつもの得意技(これがナターシャの一番の必殺技だと思う。他のアベンジャーはこれがほぼ出来ない)も華麗に披露してくれる。とくにフローレンス・ピュー演じるエレーナが大変良いキャラクターで、初めて得た自由を謳歌しようとするところが生き生きしている一方、別に姉の活躍に嫉妬しているわけではないのだがところどころアベンジャーズの大げささをからかうような発言をして、映画全体に気持ちのいいユーモアをもたらしてくれる。エレーナがナターシャお得意の髪の毛ハラリの三点着地をからかうところはかなりメタなジョークだし、個人的にはアレクセイのコードネーム(本当は「レッド・ガーディアン」)を「クリムゾン・ダイナモ」(あんまり強くないヨーロッパのサッカーチームみたいな響きだ…と思ったら本当にそういうキャラがいるらしい)と勘違いするところも笑えた。

 1本の映画として見るととても面白い作品である。ちょっとロシア語の考証が甘すぎないかとか、アレクセイの笑われキャラ扱いがやりすぎではないかとかいうようなところはあるのだが、それ以外は大変ちゃんとしたヒロインアクション映画だ。非常にしっかり仕事をしており、彼女の交渉能力・コミュニケーション力・事務処理能力なしにアベンジャーズは回らないのにどうもお色気要員みたいな扱いで実に不遇だったナターシャがちゃんと自分の物語を語る機会を得たというだけで嬉しい作品ではある。

 ただ、見ていてけっこうきついのは、これが『アベンジャーズ/エンドゲーム』の前の作品だということだ。ポストクレジットで示されているように、既にナターシャは本作終了時には亡くなっている。あの死に方は正直まったく許せない感じだったのだが、別に『ブラック・ウィドウ』にはあの死亡の許せない感を改善してくれるようなところはない。本作でナターシャは、自分には愛してくれる家族がたくさんおり、さらにそのメンバーはナターシャのために身を犠牲にしてでも戦ってくれるということを知ったわけだが、そんなナターシャはエレーナの自己犠牲を止めるのである。一方でナターシャはドレイコフの娘を殺しかけたことを非常に後悔しており、父親によってタスクマスターに改造された娘を救おうとしてある程度成功する…ものの、いまだに後悔の念が残っているようだ。しかしながら基本的には悪いのは全部ドレイコフだろうという気がするし、ナターシャも最初は洗脳に近い状態だったんだから、別に私はこの件でナターシャに自暴自棄になったり、不必要に気に病んで後悔や自己犠牲に突き進むような道は選んで欲しくない。しかしながら『エンドゲーム』の自己犠牲の展開からすると、ナターシャは自分が今まで行ってきた悪いことを過剰なまでに悔やんでいて、その悪いことの最たるものがドレイコフの娘の件だったのだろう…という解釈をせざるを得ず、正直なところ、これはかなり居心地の悪い解釈である。別にそんなに優しく正しく生きなくてもいいとナターシャに言ってあげたい。

 なお、最後に特大のネタバレをしようと思う。映画館で終映直後、近くに座ってた女性ふたりが、ポストクレジットシーンで提示されるべき写真はクリントではなくルッソ兄弟であるべきではと指摘していた。私もそう思う。

シンプルな学生舞台~ロイヤル・アカデミー・オペラ『ダイドーとイニーアス』(配信)

 ロイヤル・アカデミー・オペラによるパーセルの『ダイドーとイニーアス』配信を見た。

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 こちらはロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックの上演ということで、スタッフと学生が作った舞台である。そのため、歌はわりと良いのだが、舞台装置には全然お金をかけられなかったようで、終盤、背景を変えてから全体の雰囲気が少し安っぽいキャバレーみたいな感じになって、それ以前のシンプルな感じに比べると統一感がなくなってしまっていると思った。途中のダンスなどはギターがかなり使われていていかにも現代風で、ちょっとライヴハウスで踊っているような雰囲気があり、そこは良かった。しかし、モデナ市立ボストン・カメラータ新型コロナウイルスが流行り初めてから同じ演目を配信しており、ひょっとして『ダイドーとイニーアス』は規模が小さく短いわりに映えるので、比較的やりやすい作品なのだろうか…

世界シェイクスピア大会にて『恋におちたジョージ・ルーカス』についての発表をします

 世界シェイクスピア大会にて"Shakespeare in-between Translation and Adaptation"セミナーで『恋におちたジョージ・ルーカス』についての発表をします。今回の世界シェイクスピア学会はオンライン開催で、地球上のあらゆるタイムゾーンから参加者が来るため予定していた7月18-24日にプログラムがおさまらず、私が出るセミナーはプレカンファレンスの7/15(木)16時から(当初開催地として予定されていたシンガポール時間で15時)です。"Why Should George Lucas Fall in Love? From Shakespeare’s Biography to Star Wars"「なぜジョージ・ルーカスは恋におちるべきなのか?シェイクスピア伝からスター・ウォーズへ」というタイトルで、有名な『恋におちたシェイクスピア』パロディ映画である『恋におちたジョージ・ルーカス』について話します。初めて学会で『スター・ウォーズ』の話をします。139.196.28.181

 

 

 

 

表象文化論学会の書評パネルが終了しました

 表象文化論学会の書評パネル「現代日本とアジアにおける『コンヴァージェンス・カルチャー』」が無事終了しました。登壇者の皆様、学会企画委員会の皆様、お越しくださった皆様にお礼申し上げます。議論も盛り上がり、大変面白いパネルになりました。他の学会セッションもどれも有意義で、非常に良かったと思います。

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野心作だが、ストレートな伝記物にしたほうが…Marys Seacole(配信)

 ジャッキー・シブリーズ・ドラリーのMarys Seacoleをリンカーン・センターの配信で見た。ジャマイカクレオールで、イギリスのためクリミア戦争で看護師として活躍したメアリ・シーコールの物語である。2019年初演のものを撮った映像で、配信の予定はなかったが新型コロナウイルスのせいで配信されることになったらしい。たしかにちょっと音のバランスがおかしく、台詞よりも客席の笑いが大きく入っているような場面もあってたぶん公開用ではなかったんだろうなという気はするが、撮影はそんなに悪くない。

 一応メアリ・シーコール(クインシー・タイラー・バーンスタイン)が自分のことについて説明するところから始まるのだが、その後にいきなり時代が現代になり、白人女性を看護している現代人のメアリが出てくる場面があって、その後また19世紀に戻る。過去と現代、2つの時空があり、さらに他にもMで始まる名前の女性たちが出てくるので、どうもタイトルがMaryではなくMarysになっているのは、メアリ・シーコールが1人ではないかららしい。ふつうの伝記物ではなく、現代のケア労働(多くの非白人女性が担っている)とメアリ・シーコールの人生をダブらせるため、過去と現代を行ったり来たりさせる実験的な構成になっている。

 正直、90分の芝居でこの構成でいいのかはかなり疑問である。この尺ならストレートな伝記物にしてメアリ・シーコールがどういう業績をあげたのか、そしてその活躍にはどういう差別や矛盾がつきまとっているのかということを直線的に描いたほうがいいと思う。こういう構成にするならたぶん2時間半くらいの台本でないと、けっこうとっちらかった感じになってしまう。とくに現代の場面はなんかありがちな冗談とか血糊をいっぱい使った病院の訓練とかが出てくるだけで、別々のエピソードがパラパラ出てくるような感じであまり明確に過去の物語とつながっているように見えない。最後はかなり盛り上がるし女優陣の演技も良いのでつまらないわけではなく、野心作なのだが、いろいろアラはあるように思った。

小児性愛っぽさを全力で避けた結果、近親相姦ロマンスに~『夏への扉 キミのいる未来へ』(ネタバレあり)

 『夏への扉 キミのいる未来へ』を見てきた。ハインラインの有名小説(この小説がこんなに読まれているのは日本特有の現象らしいのだが)の映画化である。

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 舞台は1995年である。主人公の宗一郎(山﨑賢人)は両親の死亡で知り合いの研究者の家に引き取られ、その家の娘である璃子(清原果耶)とネコのピートと一緒に育てられる。長じて開発者となった宗一郎は会社で先端的なロボットや電池の開発に従事し、秘書の白石鈴(夏菜)と付き合い始めるが、鈴は実は会社のトップで現在、璃子を引き取っていた和人(眞島秀和)と結託して宗一郎を追い出すつもりだった。宗一郎はショックでコールドスリープ(冷凍冬眠)に入ることに決めるが、契約後に鈴や和人と対決することに決める…ものの鈴に反撃され、無理矢理コールドスリープに入れられてしまう。30年後の2025年に目覚めた宗一郎は、介護用ヒューマノイドのピート(藤木直人)に助けてもらってこの30年間に起こったことを明らかにしようとする。

 原作は小児性愛っぽい要素や性差別的描写がけっこうひどい作品で、とくに小児性愛(大人になるまで待っているので厳密には小児性愛とは言えないのだろうが、11歳の子に惹かれている)は今読むとかなりまずいレベルなのでどうするのだろうか…と思ったら、この作品は原作では11歳のリッキーを17歳の璃子にして、さらに宗一郎と兄妹同然に育ったということにしている。年齢差は10歳くらいあるのだが、山﨑賢人がかなり若々しくてちょっと子供っぽい性格で、また璃子も後で優秀なロボット開発者になり、原作のように相手に言われてではなく自分の意志でコールドスリープに入るという展開になっているので、幼い相手に大人が言いつけて何かさせるみたいな小児性愛っぽい気持ち悪さはなくなっている。また、生々しい描写は避けてほのかな恋心くらいの関係性にとどめており、露骨な感じもしない。しかしながら一方で血は繋がっていないとはいえ兄妹が愛し合う話になっており、けっこうガチで近親相姦ロマンスになっている。途中で鈴が「自分が璃子に嫉妬するなんておかしい」と言うところとか、明らかにこの2人の関係が近親相姦っぽいものであることを示唆していると思う。宗一郎は璃子の名前を変え、別の家に引き取ってもらって死んだことにして生きながらさせるわけだが、この強引なやり方は2人が兄妹だったことを隠滅し、ひいてはおおっぴらに愛し合えるようになることにつながる…と思うと、なかなか業の深い近親相姦ロマンスである。

 さらに小児性愛っぽくないとは言え、璃子がセーラー服を着て宗一郎のところに会いに来るのはあまり必然性がなく、よくある女子高生表象を繰り返しているみたいでよろしくないと思った(親戚の家にごはん作ったりロボット関係の機械をいじったりしに行くなら、もうちょっと汚れてもいいような動きやすいラフな格好で行くのでは?)。やたらと璃子が宗一郎の面倒を見てあげるのもちょっと男性の理想に寄り添いすぎていて、とくにハンバーグを作ってあげようとするあたりはどうかと思った。一番まずいのは敵役の鈴の30年後で、あまりにも悪意に満ちたステレオタイプな悪役描写はかなりいただけない。

 さらにこの作品には近親相姦とは言えないかもしれないが、象徴的な近親同士の献身を表現するプロットがもうひとつ盛り込まれている。宗一郎を2025年に助けるピートはいろいろ頼れるとても面白いキャラで、原作には存在しない。原作に出てくるハイヤード・ガールなどから発展させて藤木直人を引っ張ってくるというのはかなり斬新な工夫だと思うのだが、このピートは後で宗一郎が開発したロボットをもとに作られたものだということがわかり、最後にピートは自分のことを「宗一郎の子供」だと呼ぶ。全体的に宗一郎は妹(ただし血はつながっていない)と息子(ただしロボット)にひたすら助けてもらっているキャラで、なんだか全体的にご家族ドラマみたいにも見えてくる。

 いろいろツッコむところは多いのだが、中盤、とにかく研究・開発がしたい宗一郎を描いているところは悪くなかったと思う。これは原作でもそうなのだが、研究をしているとメモを見返して「あの時の自分はこんなことを考えてたんか!?」とビックリしたり、とんでもない馬鹿力で課題が解決できたりすることがあるのだが、そういう研究者の逡巡と驚きみたいなものを謎解きと絡めているところがこの作品の面白いところだと思うので、そこはわりときちんとやっている(あれだけの機材で本当に設計ができるのかな…とかはちょっと思ったが)。あと、佐藤夫妻にあたる原作の登場人物サットン夫妻はヌーディストで、主人公が夫妻に初めて会った時に相手が全裸でビックリというところがある。私はハインラインの作品ではこういう突然ヌーディストとかが出てきてちょっとビックリするけど個人の選択は尊重されるべきだしまあ細かいことは言わないみたいな、なんとなく自由な感じのユーモアがいいと思うのだが、日本が舞台なのでその設定は当然のごとく完全カットだった。