小林真大さんによる『詩のトリセツ』(五月書房新社、2021)の刊行オンラインイベントである「『詩のトリセツ』刊行記念イベント 批評って役に立つんですか?」に出ます。11/15より配信で、録画です。以下から見ることができます。
小林真大さんによる『詩のトリセツ』(五月書房新社、2021)の刊行オンラインイベントである「『詩のトリセツ』刊行記念イベント 批評って役に立つんですか?」に出ます。11/15より配信で、録画です。以下から見ることができます。
連載をしているwezzyで新刊『批評の教室ーチョウのように読み、ハチのように書く』オンラインイベントにあわせて試し読みが公開されました。タイトルの付け方に関する節の公開です。11/21のオンラインイベントのほうもよろしくお願い申し上げます。
ローラ・ウェイド作の芝居『Home, I'm Darling~愛しのマイホーム~』をシアタークリエで見てきた。白井晃演出で、2018年イギリス初演の芝居の日本初演である。
主人公のジュディ(鈴木京香)は失業して以来、専業主婦として夫のジョニー(高橋克実)と一緒に完全に1950年代風の家、調度品、衣装、食べ物などで統一したライフスタイルで暮らすようになった。フェミニストである母のシルヴィア(銀粉蝶)は娘の暮らしぶりを肯定しないが、ジュディはこれが自分がやりたいことだからと行って行動を曲げない。ところがだんだん50年代風の暮らしにもほころびが出てきて…
家庭回帰というのは『ハウスワイフ2.0』が出たくらいからよく耳にする(とは言えかなり特殊ではある)傾向なのだが、この芝居はノスタルジアに潜む危険をブラックユーモアで包んだコメディである。ジュディは1950年代というのはいい時代だった…と過去を理想化しているが、途中でジョニーの若い上司であるアレックス(江口のりこ)が指摘しているようにゲイとかだったらたぶん暮らすだけで大変だった時代だし、医療も今ほどすすんでいなかった。さらにこれは母のシルヴィアが指摘していることだが、イギリスでは1954年まで食料の一部が第二次世界大戦の影響で配給制だったくらいで、戦争による打撃から回復するまでかなり時間がかかっていた。ジュディが暮らしている可愛らしい50年代風の家とか家具はたぶんアメリカのテレビドラマなんかに出てくるそこそこリッチなミドルクラス以上の家庭を模したもので、イギリス人が経験していた1950年代とは全然違う。50年代には、イギリスの家庭では冷凍庫はもちろん家庭用冷蔵庫すらそこまで普及していなかったはずである(1959年でイギリスの家庭の13%程度が冷蔵庫を持っていたらしい)。ジュディはほとんどイギリスに存在していなかった作られた過去に対するノスタルジアにしがみついて暮らしているわけであり、そこにこのお話のダークさがある。
全体的にはけっこう笑えて、ジュディを演じる鈴木京香を初めとする役者陣も悪くなかった。ただ、場面が変わるところで音楽がかかって登場人物が踊るのだが、そこはあんまりダンスが板に付いていないというか、ちょっとわざとらしい感じがした。
『批評の教室ーチョウのように読み、ハチのように書く』が5刷決定となりました。皆様、どうもありがとうございます。今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます。
言葉のアリア『テンペスト』を見てきた。佐々木雄太郎脚色・演出による公演である。
前回の言葉のアリアの公演『から騒ぎ』同様、男性の役柄を女性にし、赦しを前面に出した作りである。主人公のプロスペローはプロスペラー(滑川恭子)だし、弟のアントーニオはアントワネット(夏葵、なぜかアントーニアではない)だ。兄弟の諍いは姉妹の諍いになり、アントワネットは『から騒ぎ』のジョヴァンナ同様、ちょっとゴスっぽくていろいろ不満を募らせている女性として描かれている。なお、ファーディナンドは男性役のままなのだが、女優(小寺絢)が演じている。全体的にプロスペラーがそんなに怖くなく、婚約祝いの見せ物の場面で急に陰謀のことを思い出して激昂するところなどはカットされており、かなり優しい母親らしい人物になっている。
そういうわけで優しい赦しを重視する作りはいいのだが、途中で婚約祝いの見せ物をコントにするのは絶対にやめたほうがいいと思った。最初からエアリアル(鹿島渚)が軽やかに踊り回ったりしているんだから婚約祝いの見せ物も踊りにすればいいのに…と思うのだが、あんまり面白くはないコントになっている。さらにちょっとしたデブ自虐ネタとかもあって(そんなにイヤな感じのものではないが)、まったく全体の雰囲気にあわないと思った。
『モーリタニアン 黒塗りの記録』を見てきた。
キューバのグアンタナモ収容所で実際に起きた出来事をベースにした映画である。モーリタニア人のモハメドゥ・スラヒ(タハール・ラヒム)は9.11テロに関わった重要なリクルーターとしてしょっ引かれ、裁判なしにグアンタナモ収容所に閉じ込められてしまう。ひょんなことからこの件にかかわることになった弁護士のナンシー(ジョディ・フォスター)はアシスタントのテリー(シャイリーン・ウッドリー)を連れてモハメドゥに会いに行き、裁判なしに長期間、人を収容所に閉じ込めるのは違法であるとして訴えを起こす。一方、アメリカ政府はモハメドゥを死刑にすべく、優秀な弁護士で軍人であるスチュアート(ベネディクト・カンバーバッチ)を検察側の担当にするが、調査をすすめてもあまりきちんとしたモハメドゥの罪状の裏付けが出てこず、スチュアートは困惑してしまう。
モハメドゥは90年代にアフガニスタンに渡り、アルカイダで訓練を受けて反共側として戦ったことがあり、さらにいとこがアルカイダの重要人物だったため目をつけられていたが、90年代半ば以降はアルカイダにかかわっておらず、9.11テロに関係したという証拠は出てきていなかった。しかしながら拷問によって自白を強要された(もちろん違法である)。開示請求によって途中で自白の文書が出てくるところでは、最初からモハメドゥの実際の罪状よりは違法な拘束を問題にしていたナンシーと、モハメドゥの無実を信じていたが自白を見てショックを受けたテリー、経験や年齢の違う二人の女性弁護士の反応がそれぞれ細やかに描かれており、とくにナンシーを演じるフォスターの演技は非常に良い。信心深くて真面目で神と法に忠実であろうとするスチュアートが違法な拷問に怒って仕事を降りてしまうというのはちょっとビックリするような展開だが、これは美化しておらず、実際に起こったことだそうだ。
本作のポイントは、モハメドゥがナンシーにすすめられて自分の経験を書くことにより、違法な拘束に抵抗して身体的な自由を得るのみならず、勇気づけられて精神の均衡を保てるようになる様子を見せているところだ。モハメドゥは十代で奨学金をもらってドイツに留学しており、さらにグアンタナモ収容所に入ってから本格的に英語を学んですぐ上達したそうで、もともと勉強好きだし語学も得意だったらしい。タハール・ラヒムの演技がとてもしっかりしているので、かなり陰惨な虐待が描かれるにもかかわらずモハメドゥの主体性が前に出ていて、単なるかわいそうな犠牲者として客体化されるのではなく、書くことで生き、抵抗を学ぶ存在として主人公が提示されるようになっている。
そして最後に明かされるように、実はこの映画じたいがこの作中でモハメドゥが書いている物語である。このモハメドゥの自伝はいろいろ情報公開でもめたものの実際に刊行されてベストセラーになったそうで、思わぬところで文才が開花したようだ。全然違う話だが、罪に問われている人が書くことで自由を求めるというのは、この間公開されたフランソワ・オゾンの『Summer of 85』ととてもよく似ている。