カティリーナにも歴史あり〜大浦康介『フィクション論への誘い―文学・歴史・遊び・人間』

 大浦康介『フィクション論への誘い―文学・歴史・遊び・人間』(世界思想社、2013)を読んだ。

 芸術をやっている人なら一度は考えたことがあるはずだが非常につかみどころのないものである「フィクション論」に関する論集で、歌謡曲から漫画までかなり手広くいろいろなものを扱っており、最後には文献ガイドもついていて実に役立つ本である。冒頭のほうでフィクションとは何か、フィクション論とは何かというようなことを演劇論などを引きながら論じ、それ以降は具体的な作品などをとりあげてフィクション論をやるという内容になっている。

 とくに面白いのは第七章、鷲田睦朗『語(騙)り継がれるカティリーナ ― 「共和政末期の没落」をめぐる歴史叙述とフィクション』で、これはクレオパトラの表象史で修論を書いた私には非常に興味深かった。そもそも私は『キケロー弁論集』を愛読しているわりにはカティリーナに表象史があるというのに思い至ったことがなく、そのあたり自分の不明を恥じるところがあったのだが、キケローのあの悪口雑言の演説とサッルスティウスをもとに、後世の人がカティリーナものをけっこうたくさん作ってたというのがそもそも面白いと思う。同じローマの敵ということでクレオパトラの表象史とかと比較してもいいのではなかろうか。

 ただ、全体的には一本一本の論文がやや短く物足りないところがあった気はした。あと精神分析の話はフィクション論の論集に入れるべきなんだろうか…とか最初で演劇の話が出てくるわりにはお芝居だけがっつり扱った論文がないとか、論集に入れる題材のチョイスに若干疑問もあった。とはいえ、とても面白い論集だったので非常にオススメ。


参考:「さかのぼるって何?文学や映画における、時間が過去から未来に直線的に進まない作品のタイプ分類

前田愛『近代読者の成立』〜日本近代メディア受容史に関する基本書

 前田愛『近代読者の成立』を読んだ。1973年だかに出て何度か再版されているらしいのだが、私が読んだ2001年の岩波現代文庫版ももう品切れらしい。良い本なのに残念である。

 内容は天保期から戦後くらいまでかなり長いスパンで、出版、作者の考え方、読者の投稿などなどいろいろな角度から日本の文芸と読者の関わりを探る、というもので、江戸の文芸などをよく知らない者には非常に新鮮な情報が多い一方、メディアや受容の歴史研究としてはどの分野にも応用できそうなところが多くて非常に興味深かった。

出光美術館「源氏絵と伊勢絵〜描かれた恋物語」展

 出光美術館「源氏絵と伊勢絵〜描かれた恋物語」展を見ていた。結構こんでいて人気もある展覧会だったのだが、うちが絵巻とかマンガみたいな絵に物語がついてるタイプの絵が大変苦手であるせいであまり楽しめず…一枚の絵はわりとわかりやすいものもあったのだが、あの雲でいろんなコマがつないである絵巻に似た屏風とかは本当に読解に技術が必要で私のような素人にはとても太刀打ちできないし、すっと入ってこない。

さかのぼるって何?文学や映画における、時間が過去から未来に直線的に進まない作品のタイプ分類

 第七回歴史コミュニケーション研究会に出席した。
 報告内容についてはこちらとかこちらで既に詳しい説明があがっているからいいとして、私が気になったのは第二部「さかのぼり世界史A」である。というのも、なんか普段文学や芝居、映画のナラティヴに触れている人にとっては「さかのぼり世界史」は本当はさかのぼってないんじゃないかという疑惑があり、実は初めての査読論文が小説をタイムラインに起こしてみるというものだった私にはなかなか気になるところで…と、いうわけで、独断と偏見で「時間が過去から未来に直線的に進まない作品のナラティヴ分類」を今後のためにやってみようと思う。こういう時系列の分析って読解テクニックとしてけっこう文学や映画の人は学校で習ったりふだんの経験で身につけたりするんだけど、いい参考文献見つからなかったので何も見ないで自分の手業で書いてるからちょっと不適切なところがあるかも…いい文献あったら誰かコメント欄で示唆してください。これが最も問題になるのは小説や芝居よりむしろ場面を編集でつなぐ映画で、とくにタランティーノのせいでこういう時系列をむちゃくちゃにする映画が1990年代以降やたら増えたと思うので、例としてはできるだけ映画をあげることにします。


イン・メディアス・レス
 物語の途中から始まり、いったん過去に戻って現在まできたあとその後かなりあとの時点まで続く。つまり順番はB→A→B→C。終わりの時点は物語が始まった時点より後になる。最も基本的な叙事詩の形式である。
例:『オデュッセイア』(叙事詩はこういうのが多い)
 『プレミアム・ラッシュ』(2012)…日本公開まだされてないと思うんだけど、これはイン・メディアス・レスの見本のようなアクション映画である。ジョゼフ・ゴードン=レヴィット主演。


○変則型イン・メディアス・レス
 開始の時点が時系列的には一番新しく、いったん戻って現在の時点まできて終了する。だいたい、「現在の時点まで戻った」と言ってもオチだけはその後あることが多いのでふつうのイン・メディアス・レスと区別するのが難しいのだが、便宜的にふつうのイン・メディアス・レスは叙事詩的に物語開始時点に戻ってからかなり展開が続くもの、変則型は現在に戻ってオチだけついて終わるもの、というふうに分けたい。つまり順番はB→A→B(→B'=オチ)
例:『サンセット大通り』(1950)→冒頭の時点(現在)で語り手は死亡しており、そこで過去に戻ってどうしてそうなったかという話が直線的に語られて現在まで戻ってくる。


○フラッシュバック使用型
 イン・メディアス・レスではなく、基本的に現在の時点で話が古いほう→新しいほうへと進行するが、フラッシュバックが作中に組み込まれており、たまに過去に戻る。フラッシュフォワードはほとんどない。超単純なものから複雑なものまでいっぱいある。
例:『ナビィの恋』(1999)→ちょっとした回想シーンがフラッシュバックで入っているという素直なもの。
ホビット 思いがけない冒険』(2012)→著者がいて昔のことを回想するという枠があるもの。これもかなりわかりやすい。
 『フライド・グリーン・トマト』(1991)→おばあさんが主人公に昔話をして主人公がそれにハマる、という現在のストーリーラインが進行する一方、おばあさんの昔話も作中で進行する。この部分がフラッシュバック。
 『市民ケーン』(1941)→フラッシュバックが何回かあって、それも必ずしも年代を追っているわけではない、という若干複雑な構成。
 『ベルベット・ゴールドマイン』(1998)→『市民ケーン』のオマージュだが、若干簡素かも。
 『ハングオーバー! 』(2009)→若干、変則的。イン・メディアス・レスと似ているが、話はどっちかというとA→C→Bみたいになる。
 『抱擁』(2002)→これは過去の話が現在からかなり独立して存在しているので後に出てくる並行型に入れてもいいのだが、少なくとも「現在」の時点があるので変則的なフラッシュバックとしたい。



フラッシュフォワード使用型
 フラッシュバックがほとんどなく、フラッシュフォワードのみ使用されるもの。つまり、視点は現在で基本、古いほう→新しいほうに話が進むが、たまに未来の場面が入ったりする。このカテゴリは大変少ない。
例:『イージー★ライダー』(1969)→これにフラッシュフォワードあったはずなのだが、私の大嫌いな映画なのでイマイチよく覚えてない…


○並行型
 時間軸の違う複数の話が並行して古いほうから新しいほうに進む。つまりA→B…とX→Y…が同時並行で存在する。これがフラッシュバックと違うのは、「現在」の視点が決められないことである。全ての話に同じ比重がかけられ、それぞれの話のつながりが一見わからないので、「現在」の視点が確実にあってそこから過去に話が戻るフラッシュバックとは違う。
例:『めぐりあう時間たち』(2002)
 『クラウド・アトラス』(2012)
 


○逆順
 視点が現在ではじまってひたすら過去にもどる、これが本当の「さかのぼり」。つまり話の順番はZ→Y→X…みたいになる。これも非常に少ない。
例:『ルイーズとケリー』(1986)


○時系列が一見不明のもの
 フラッシュバックやフラッシュフォワードを自由に駆使しており、場合によっては最初観客に何がフラッシュバックで何がフラッシュフォワードかも明かさないのでかなり複雑な構成になるもの。ひとつひとつの場面を時間軸に起こして分析する必要がある。
例:『パルプ・フィクション』(1994)→時間軸バラバラ映画を流行らせた張本人。ウィキペディアに時系列のまとめがある。こう考えると、タランティーノが最近歴史映画を作ってるのは当たり前かも…昔から歴史をぐちゃぐちゃにして叙述するっていうスタイルに関心があったんじゃないのかな?
 『エターナルサンシャイン』→注意して見てないと時間がわからなくなるが、すごく面白い作品。
 『(500)日のサマー』(2009)→これこそ最も時系列がバラバラな映画だと思うが、日付が出るという超親切設計なのでまったく混乱はしないはず。ジョゼフ・ゴードン=レヴィットが出てる。


 と、一応こういうふうに分類してみたのだが、最後のカテゴリはもっと洗練させて細分化できる気がするし、こういうタイプのものはどうする、とかこういう本が参考になる、とか、疑問や役に立つ情報をどんどんコメント欄に書き込んでください。で、「さかのぼり世界史」の話は「イン・メディアス・レス」とか単なるフラッシュバックの使用も「さかのぼり」と言ってる気がして、どうも私は解せなかった。さかのぼりっていうのは逆順ナラティヴであるべきでは?

 あと、とりあえず時系列をいじった映画をつくりたかったらジョゼフ・ゴードン=レヴィットを出すべき。ジョゼフが出た『Mysterious Skin/謎めいた肌』も『インセプション』も話が進む方向が直線的ではないけど面白い。

杉山博昭「隠された実母――『モーセとエジプト王ファラオの聖史劇』に投影された社会的関心」

 杉山博昭「隠された実母――『モーセとエジプト王ファラオの聖史劇』に投影された社会的関心」、『西洋中世研究』4(2012), 149-69を読んだ。

 この論文は15世紀フィレンツェの聖史劇『モーセとエジプト王ファラオの聖史劇』のテクストを主に「母」をめぐる表現に注目しながら丁寧に読み解き、この芝居が観客にとってどういう意味を持つものであったのか考察するというものである。最初の部分にある先行研究レビューによると、イタリアの聖史劇は実際に出て来た資料のうちどれが上演用でどれが読み物向けに改訂されたものなのかまず分類・同定しなければならないというやっかいな問題を抱えており、ト書きや上演記録などとつきあわせて比較検討せねばならないらしい。『モーセの聖史劇』について直接の上演記録は残っていないそうなのだが、写本の状況などからして今残っているものは上演用だった可能性が高いらしい。この芝居はモーセの発見の物語を題材にしているのだが、『出エジプト記』に比べると王女に拾われたモーセの乳母の素性(『出エジプト記』では実母)が曖昧にされており、これはモーセと処女マリアから生まれたイエスを結びつける予表論的な解釈を誘う表現になっている。また、当時のフィレンツェに乳母制度や養子縁組に関する批判、つまり子供は実の親に育てられるべきだ、という考えがあったことをもとに、この芝居が乳母や養子の制度に関する肯定・否定両方の風潮を背景に消極的にこうした制度を維持する志向を見せていることを示している。

 もともと聖史劇というのはいろいろな知識が必要でなかなかわかりにくい分野だと思うのだが、そうした中でこの論文は母と子をめぐる表現に着目するということで他の分野の人にもわかりやすく読める切り口を提供しており、観客反応批評的な側面もあって面白く読めた。とくに乳母たちがドタバタを繰り広げる場面の分析については、イギリスの中世劇にも似た感じのところがあるのでとても参考になる。

 なお、この論文は同じ著者による『ルネサンスの聖史劇』の一部で、この本もとても面白かったのだが別の機会に取り上げようと思う。

おまけ:イギリスの中世劇についてのおすすめの本

おまけ2:同じ雑誌に入っている別論文のレビュー
オシテオサレテ「奏楽天使の中世 山本「天上と地上のインターフェイス」」

ジャック・ボドゥ『SF文学』〜たぶん著者はファンタジーが嫌い

 ジャック・ボドゥ『SF文学』新島進訳(白水社、2011)を読んだ。これは西洋SF小説の歴史と各ジャンルの概要を新書一冊くらいのコンパクトサイズで解説しようというものである。

 前半はSF小説の歴史、中盤はアメリカ・UK・フランスを中心にした地域ごとの特徴、後半はジャンルごとの解説が主で、まあ一冊でSFの歴史を知る、という意味ではいいガイドブックなんだと思う。あと、SFが自然科学じゃなく社会科学とか人文科学をもその扱うScienceの中に含んできた、っていう指摘はちょっとバイアスある気もするけど面白い。

 とはいえ、結構ツッコミどころもある本だと思う。まず、どういう読者をターゲットにしているのかよくわからない。ほとんど作者名とタイトルの羅列になっているところがある一方、わりと詳しく書いてあるところもあって、ほとんどSFを読んだことのない大学生とかが例えばジャンルフィクションの授業で使う教科書みたいなものとして書いたのか、それともけっこう既にSFに詳しい人が使うハンドブック的なものとして書いたのか、ちょっと判然としないところがある。

 それから、著者がフランス人ということもあるのだろうが、かなり扱っている作家の国籍が偏っている。西洋SFの本なので日本とかアジアが出てこないのはまあしょうがないと思うのだが、東欧・ロシアの話がかなり少ないと思う。あと、マーガレット・アトウッドとか出てこないのでカナダとかすらあまりカバーしてかも。
 
 あとなんかたぶん著者はファンタジーがかなり嫌いで、最後のファンタジーに関する節はちょっとひどい。「ファンタジーは魔術的な思考への回帰から生じたもので、つまり退行的だが、SFのほうは知性や知識の獲得に基づいている。ファンタジーは不合理なものを美化するが、SFは世界に対して問いかける道具である」(p. 141)って、こういう言い方ははっきり言って私はSFファン(それも科学重視型のハードSFのファン)の与太にすぎないと思うし、ファンタジーのほうがより実験できるジャンルだと考えている一部の民族マイノリティやフェミニストは全然こういう見方には与しないと思うんだけど、どう?ファンタジーとSFで対立するのってパイの食い合いみたいで私は全く関心しないのだが。


トム・ストッパード&ジョー・ライトの演劇的異化効果が炸裂する『アンナ・カレーニナ』〜全ては劇場の中で起こっている[ネタバレあり]

 キーラ・ナイトレイ主演の『アンナ・カレーニナ』を見てきた。えーっと『アンナ・カレーニナ』が映画化されるのは…いったい何回目だ?

 それで、とりあえずは出回っている二枚のポスター写真を見ていただきたい。


 
 ↑これ、なんかヘンだと思いません?一枚目はタイトル文字も含めて後ろのセットが舞台の書き割りみたいだし、二枚目は額縁舞台の前にアンナがいて後ろから機関車が来てるでしょ?

 と、いうことで、私は見る前は全然きづかんかったのだが、この映画は実はヴィジュアル的にはほとんどこのとおりに展開する。なんかまあ説明しづらいのだが、とりあえず最初は額縁舞台の幕があくところから始まり、最後も舞台全体がうつってカメラがひいておしまい。

 で、それだけならまあわりとふつう…というか『ムーラン・ルージュ』とかでも使われているのでメタシアターっぽい映画としてはありがちな設定である。ところがこの映画が変わっているのは、ほとんどの場面が劇場内で展開するということだ。「舞台上」ではなく「劇場内」というところがミソで、舞台の上だけではなく客席やら、はては天井のすのこやら劇場に入るロビーやらもこの「劇場内」に含まれる。例えばカレーニンの屋敷に出入りするところは劇場に入る回転ドアの映像が使用されるし、舞踏会は劇場の舞台下の客席がある部分(もちろん客席はとっぱらってある)が使用される。場面転換もセットが回転するみたいな感じだし、演出も全員静止してるところにアンナとヴロンスキが通ったら人が動き出すとか、いちいち演劇的である。リョーヴィンがいる場面だけはわりと外でロケしてることが多いのだが(なんでもジョー・ライトによるとこれはリョーヴィンだけが現実世界と完全に繋がってるかららしい)、それ以外は野外の場面でも背景が部分的に書き割りだったり、全部すごい人工的で異化効果がハンパじゃない。このへん、ヴィジュアル的には目を見張るものがあるし、ただの時代もの恋愛劇じゃないというのは明らかである。

 …しかしながら、私が思うにこのジョー・ライトの「リョーヴィンだけが広いロシアの大地に結びついている」という解釈は非常に映画的に浅はかと言うか、まあだってリョーヴィンって少なくともこの映画に出てくる中では一番つまんねー奴じゃない?そりゃまあ農地改革やろうっていう意気込みは素晴らしいと思うけど、理想を持っていろんなボランティア活動に飛び出していったお坊ちゃんたちが現地のことがあまりよくわからなくてかえって周りに迷惑をかける、というのが去年以来(もちろんそれ以前からずっとあるんだけど)たくさん起こっていて、しかもこの映画に出てくるリョーヴィンはきちんと自分が田舎でやってることを説明せずに新妻のキティを農地改革先に連れて帰ってくるのである。そしてどういうわけだかキティはすぐそれに適応するのだが、私が思うにいくらできる妻でも都会から連れてきたお嬢さんがいきなりあそこまで田舎暮らしに適応するってあり得ないと思うし(都会育ちの妻が夫の地所に適応できず…ってそれだけで映画になる話で『大草原』とかもろそういうテーマの映画)、あれこそこの映画で一番現実離れしてる展開だと思った。それに比べて全部劇場内で展開されるアンナとヴロンスキーの不倫、出産で死にそうになるアンナ、カレーニン夫妻の離婚なんかは今でもえらいリアルである。この映画では、たぶんライトの意図とは逆に、劇場内で起こっていることが一番現実的で、劇場外で起こっていることのほうがリアルじゃない、という逆転が起こっていると思う。

 そういうことでライトの劇場と現実を対比させる意図ははっきり言って失敗していて、そのせいでなんかすっきりしないところが多い映画になっていると思う。全体的に、わざとらしい背景とストレートで自然主義的な演出が釣り合ってない感じがする。とくにアンナとヴロンスキーが会ってから恋に落ちるまでの描き方とかが背景の人工性に比べてやたらにリアリズム的で、「これ、バズ・ラーマンが撮ったらもっとわざとらしいぶん説得力あっただろうな」と思ってしまった。

 まあしかしながらヴィジュアルコンセプトとしてはすごく野心的だし、異化効果というものを考えるにあたっても演劇好きは見ておくべき映画だと思った。とくにトム・ストッパード風の不条理劇風味、メタシアター風味が強いという点では『恋におちたシェイクスピア』を上回っていると思う(映画としての出来は『恋におちたシェイクスピア』のほうがいいと思うが)。あと役者の演技については文句がない。相変わらずアンナ役のキーラ・ナイトレイはこういう時代もののヒロインはお手の物なので、もっと古典の映画化にどんどん出て欲しいと想う。あとジュード・ロウのカレーニン役が個人的にツボで、ほんとならまだヴロンスキの役だってメイクで若作りすればできる年だと思うのに、いつものイケメンぶりを封印して年配の寝取られ夫を超複雑で深みのある物静かな人物として演じており、あまりによくできているのでこの調子でチャタレイ夫人のクリフォードとかもやったらいいんじゃないかと思ってしまった。

 …まあ、そんなわけで、私は通常運転で「リアリズムは犬も食わない」と思ってやまないわけであるが、古典で不倫で演劇的つながりで絶対この『アンナ・カレーニナ』と比べないと、と私が公開を待っているのがバズ・ラーマン監督の『偉大なるギャツビー』である。クリスマス公開のはずが来年5月にのびちゃったのが待ち遠しいが…