RSC『ジュリアス・シーザー』〜現代のサブサハラに設定を移し、キャストも全員アフリカン

 学会二日目の夜は『ジュリアス・シーザー』を見た。設定を現代サブサハラの国に移し、キャストも全員アフリカン(カリビアンもいるのかもしれないがアクセントとかでは私は判別できなかった)、アフリカ英語を使った上演。

 セットは後ろに大きな銅像のある階段広場(中心に1箇所入り口の穴があいており、舞台奥から入場できるディスカバリースペースのような通路になっている)である。のっけからアフリカっぽい歌を歌って盛り上がる群衆に異様な雰囲気の預言者も出て来て期待大だったのだが、最後までノンストップで緊張感が持続してかなり面白かった。

 とにかく、古代ローマの政治状況を現代アフリカのサブサハラに非常にぴったり(あまりわざとらしくなく)あてはめているところが良かった。高貴な理想を持った政治家に権力が集中しだんだん政治体制が腐敗して独裁者に…というのはアフリカでよく見かける事態だが、よく考えたらこの芝居に出てくるシーザーはそういう人である。我々はローマは当時の先進国だしシーザーもなんかカッコいい英雄だったんだろうと思っているが、これは多分に過去の美化と西洋中心主義が入っているはずだ。シーザーも敵対者からすると現代史でいうロバート・ムガベみたいなにっくき独裁者に見えたのかもしれない、ということを芝居で提示するのは非常に意味があることだと思う(ムガベだと悪辣すぎるか…毀誉褒貶半ばし、いい意味でも悪い意味でも英雄っぽいという点では南米だけどウゴ・チャベスとかを想像したほうがいいのかも)。また、(史実はともかく)この芝居に出てくる古代ローマと現代のサブサハラの国々はいろいろな共通点がある。政治家は法の公正な支配とかよりは一門の名誉とか権益を守るために戦い、地盤は世襲、呪術師が人々に信じられている(まあこういうのはどこの国にも多かれ少なかれあることだが、いまでも呪術師が仕事として成り立っているらしいアフリカに舞台を移すと予言者の存在感が非常に際立つのは確か)。こういうふうに丁寧に『ジュリアス・シーザー』と現代政治を関連づけることで、この芝居に出てくる問題はお客さんたちが生きている世界で起こっていることにそのままリンクしているのだ、ということを示せるし、一方でうちらはローマ史とかになんとなく憧れを抱く一方サブサハラの国々は未開発地域みたいに思っているが、実はどちらもそう変わらないところがあるのだ、ということを指摘して客側が持っている固定観念というか差別意識みたいなものを揺さぶってくれる。こういうコンセプトは非常にわかりやすくかつエキサイティングである。

 で、コンセプトだけ良くても演出や演技が悪いと悲惨になるのだが、こちらも良かったと思う。ブルータス(パターソン・ジョセフ)はヘタするとなんか煮え切らない人だなーという感じになってしまうと思うのだが、非常にエネルギッシュで理想に燃える一方人間味のある政治家として作られていて良い。マーク・アントニー(レイ・フィーロン)はなんかスポーツ選手みたいな格好で出てくるのだが、コミカルだったり狡猾だったりとにかくクレバーな感じである。この2人がシーザー暗殺のあとに演説する場面は私のお気に入りの場面のひとつなのだが、すごく盛り上がった。グレゴリー・ドーランの演出もことさらに「シーザーって現代っぽいでしょ!」みたいにならず、わざとらしくなく笑いをたくさん取り入れていて良かった。なんと休憩なし(普通、シーザー暗殺の後に休憩が入る)で二時間十五分ぶっ続けなのだが、休憩を入れると一部と二部がかなり違う話に見えるのをぶっ通しでスピーディにやることで回避していたと思う。最後、小姓のルーシャスがブルータスを殺すところとかはだいぶ改変してあったな…ルーシャスのキャラクターが非常に原作より大きくなっていたような印象があるのだが、これはやっぱりアフリカの少年兵問題をそこはかとなくにおわせているんだろうか。