NTライヴの『ジュリアス・シーザー』を見てきた。『ヤング・マルクス』に続き、新しいブリッジ・シアターでの上演を撮影したものである。演出はニコラス・ハイトナーである。
とにかく面白いのは空間の使い方である。空間の使い方が非常にフレキシブルで、決まった舞台がない。一応座席部分はあるのだが、平土間は立ち見でそこに「市民」として観客を入れ、パフォーマンスは平土間やその上に立てた間に合わせの台のような舞台で展開される。観客はローマ市民として扱われ、パフォーマンスに合わせて移動もできる。ロックコンサートから始まる現代風の演出で、登場人物はスーツや政治スローガンの書かれたジャケットなどを着ている。しかしながら、こんなに自由に使える空間で上演されているのに、この芝居に出てくるローマの公共圏は人間が自由に動けるような場所ではない…ということがポイントで、登場人物は皆、自由を求めているにもかかわらず、政治や家族や友愛など、さまざまなしがらみにとらわれてがんじがらめになっている。
主人公のブルータス(ベン・ウィショー)はものすごく知的で、そこは予想通りだったのだが、思ったよりかなり普段からイライラしていてコミュニケーションが下手な感じに作られていた。ベン・ウィショーが普段の優しい雰囲気を封印してピリピリした理想家で学究肌のブルータスを作り上げている。ポーシャと話すところなどもかなり自分の気持ちを伝えるのが下手そうな感じだ。一方でキャシアス(ミシェル・フェアリー)は女性、つまりブルータスの義理の兄弟ではなく義理の姉妹という設定なのだが、極めて実際的な女性である。キャシアスはふつう、やせっぽちでイライラしていて神経質な感じに作ることが多いと思うのだが、このキャシアスはむしろブルータスより肝が据わっている感じで、いかにも頼れるお姉さん然としている。キャシアスを女性にしたせいで、ふつう男性同士だと強調されるホモソーシャルというかむしろホモエロティックとも言ってよいような感じがなくなり、ブルータスとキャシアスの関係はかなり家族的で、実務家の姉と理想家の弟という感じだ。ユタシェイクスピア祭で見た『ヴェニスの商人』でも、男性同士でやるとホモエロティックな感じになるアントーニオとバサーニオの関係が、アントーニオを女優にするとなんだか家族的になるということがあったが、これはひょっとしてけっこういろいろなプロダクションに共通するポイントなのだろうか。
このプロダクションは全体的に、感情の政治に関する物語だという印象を受けた。理屈っぽいブルータスも、結局はキャシアスとの家族的な感情にひきずられて暗殺に加担する。ブルータスがアントニー(デイヴィッド・モリッシー)より若いというのはちょっとびっくりしたのだが、この上演におけるアントニーはエリート的なブルータスに比べるとシーザーのどぶ板選挙キャンペーン叩き上げの政治家という感じで、政策的なところよりは感情的なところでシーザーを慕っているように見える。ポピュリスト的でカリスマ的なリーダーであるシーザー(デヴィッド・カルダー)は人を惹きつけ、感情を揺さぶることに長けた政治家だ。そんなシーザーが亡くなった後に、シーザーの養子である若くて小生意気なオクテーヴィアス・シーザー(キット・ヤング)がやって来るので、感情でシーザーとつながっていたアントニーとしてはあまり居心地が良くないわけである。この感情が政治を動かすというのは非常に現代的なテーマで、とても良いところをついていると思う。