オールドヴィック『ヘッダ・ガブラー』〜だから、完成された古典をちょっとだけいじるのは危険なんだってば

 オールドヴィックで『ヘッダ・ガブラー』を見てきた。言わずとしれたイプセンの超有名作だが、この上演はブライアン・フリールが翻案しているもの。

 で、私、この原作を高校の時に読んでなんかいけすかない美人が一人で悲劇ってる話だというようなおぼろげな記憶しかなかったのだが実際に芝居を見たら全然そういう話ではなく面白かった…のだが(まあこれは私が大きくなったからだと思うんだけども『人形の家』同様『ヘッダ・ガブラー』はとにかくオトナな話である)、ところどころなんか良くないなと思うところがあり、あとでマイケル・ビリントンの劇評などで確認したところ、私がヘンだと思ったところはたいていフリールが付け加えたところだったらしい。

 とりあえずヘッダがブラック判事に自分の落ち着かない気性について説明するところで、「ヘッダみたいな頭の切れる女がこんな調子でこんなことを年上の男性に打ち明けるのって何かピンとこない」と思ったら、いかにも19世紀っぽい神経症ふうな発言はたいていフリールの付加らしい。ヘッダは美人で人心掌握に長けている一方、本当はそれではダメだとわかっているのに自分の育ちのせいで新しい社会の動きにあわせて冒険する勇気を持てず情熱を持て余しているという女性で、一見破壊的に見える行動でもどうしてそうなったのか観客にはきちんと筋が見えるからこれはブラックコメディ風味ではあっても実は悲劇なんだと思う。ところが神経症みたいなちょっとロマンティック風味の小細工を持ち込んだせいでなんかヘッダの超複雑なキャラクターが「ヒステリー女」みたいなステレオタイプに近くなってしまい、このわかってても破壊に突っ込んでいくほかない悲劇味が減ってしまったように思う。ヘッダ役のシェリダン・スミスがほんとに綺麗でかつ独特の利口そうな感じを発散していてすごく良かっただけにここは残念。

 あと、愛のない結婚をする文化史学者テスマンがやたらスリッパとか子供の名前にこだわるところはずいぶんドタバタだと思ったのだが、ここもフリールの付け足しらしい。これもいらなくないか…

 全体的に、めちゃくちゃにいじって換骨奪胎するならともかく、完成された古典にちょっとだけ手を加えるというのは危険で(カットするだけでも慎重にやらないと話が通じなくなったりするから足すほうは余計そう)、とくに原作にある曖昧さとかとっちらかった筋をはっきりキレイにまとめる方向に手を入れようとするとたいてい悲惨な結果になるのはシェイクスピア翻案の歴史で証明されてると思うので、フリールがなんでイプセンの戯曲の設定とか基本の台詞はそのままでちょっとだけ手を入れようとしたのかはよくわからない。例えば舞台を現代アイルランドにするとか完全に変更するならわかるのだが、なんでこんな半端な改訂にしたんだろう?セットとかは結構良かったのだが…

 まあ戯曲自体は非常に興味深い。ヘッダのキャラクターもそうだが、ヘッダの夫のテスマンとヘッダの元カレで今はヘッダの友人テアと不倫しているレブボルグが文化史学者だというあたり、19世紀的な学問観を感じる一方で熾烈なアカデミックポスト争いは現代にも通じるなと思ったりする。あとレブボルグが「黄金の心を持った不良」っぽく出てくるのに結局こいつもダメ男で、しかもテアの労働力を無料で使ってるあたりもなんかやだなーと思ってしまった。このあたり、イプセンも人間を見る目が厳しいな…