森山至貴『ゲイ・コミュニティの社会学』

 森山至貴『「ゲイコミュニティ」の社会学』(勁草書房、2012)を読んだ。実を言うと昨日に引き続き、今日の本の著者も私の友人である。

 まず、この本について一番すばらしいと思ったところは問題意識である。この本はゲイやバイセクシュアルの男性の「集合性との心理的葛藤やそれへの疎外感、言い換えるならば集合性への『ついていけなさ』」(p. 7)を主要テーマとしているのだが、コミュニティというのは安心を与える一方、不愉快感をも与えるものだと私は強く思っているので(なんてったって私は他人が大嫌いなのに解釈共同体の研究なんかしてるんだからこのコミュニティの二面性が気になるに決まっている)、目の付け所自体に非常に面白いと思うところがあった。で、これを調べるために雑誌(文字メディア)と聞き取り調査(オーラルメディア)を組み合わせるっていう発想も面白い。

 あと面白いのは第七章にある聞き取り調査で、こういう丁寧な調査は共同体の一面を明らかにすると同時にそれぞれの調査されている人々の個性(コミュニティ調査をする上で一番無視されがちだが実は一番無視してはいけないものだと思う)が浮かび上がってくるものでもあるので非常に興味深いと思った。

 しかしながら、全体を読んでいて不満なところもいくつかある。とりあえず大きく分けて二点。

 まず、単純に文章が読みにくいと思う。社会学のセオリーの話が大半をしめており、決してわかりやすい話ではないのだがあまり専門外の人でもすぐわかるような感じでは書かれていないと思った。文章・章構成どちらについても、もっと非専門家(とくに、社会学を専門としないが関連分野をやってる人)にもわかるような工夫が要る気がする。

 次に理論に割いているページがこれだけ多いのはいいのか、ということである。これは私の個人的好みの問題である一方、私が関心を持っている文芸受容研究とクィアスタディーズ両方の論点とも関わることだと思うのだが、生きているコミュニティを描写する場合、それをどこまで理論的モデルで分析するのが許されるか、というのがいつも私の頭の中にあり、この本はその点で理論に偏りすぎてはいないか、という気がする。批評理論でたまに言われる話であるが、理論はある類似性を持ったテキスト群の総体から抽出されるものであり、その総体を記述するのに役立つから使われるものである。これが逆になって、既にある他のテキスト群に別のテキスト群に関する理論を持ってきてもあまりうまくいかないことが多い。で、これはたぶんテキストじゃなく人間のコミュニティでも同じで、というか一人一人が特異性を持って動いている動的な人間の集まりにおいてはやたらに理論を持ってくるとそのダイナミズムの記述を損なうことになりやすいんじゃないかと思う。この本は最初のほうは非常に理論が多くて最後のほうになってから雑誌の調査や聞き取り調査の分量が多くなるのだが、これだと「既存のモデルを生きているコミュニティに適用している」感が高くなってしまってちょっとピンとこない、というかややのっぺりした印象を与える気がする。まあ、うちはクィアと芸術双方の一般化とか整理・分類みたいなものを強力に拒否するところに魅力を感じているというのがあるので、多分に個人的な好みの問題もあるのだが。

 あと、これは文化史っぽいことをやってる研究者としての細かい疑問なのだが、ギデンズの親密圏の話(p. 75)はいいのか…?うちギデンズとか全然読んだことないのだが、歴史系で中世と近代の親密さの違いとかをもっとかなり精密に論じている論者っていっぱいいそうな気がするのでなんかしっくりこなかった。あと、私は日に日にジュディス・バトラーは実はantitheatricalなんじゃないかという疑問を持ち始めているのだが、この本の208-09ページあたりを読んでさらにその疑念が高まったので一度バトラーを読み直さないといけないと思う。

 それから、最後に私はこの本を英語で出版することを猛烈プッシュしたい。日本のゲイ・コミュニティをここまできちんと考えた本はイギリスとかでも非常に関心をそそると思うし、あと英語にすれば私がわかりにくいと思った理論関係のこみいった話がもっとすっきりするかもしれないと思うからである。