医学は幽霊を殺すか?〜シアターコクーン『幽霊』

 シアターコクーンイプセンの『幽霊』を見てきた。森新太郎演出で、安蘭けい主演。イプセンは『人形の家』と『ヘッダ・ガブラー』は見たことがあるのだが、『幽霊』は初めて見た。

 舞台は19世紀末のノルウェーのどこかの島。故アルヴィング男爵を祈念する孤児院の落成イベントのため、街から牧師のマンデルスが寡婦のアルヴィング夫人を訪ねてくる。アルヴィング夫人はかつてマンデルスを愛しており、放蕩者の夫のもとからマンデルスのもとに逃げたという過去を持っていたが、夫と離れないようマンデルスに説得されて以来、改心した夫の元に戻って仲むつまじくさまざまな事業をなしとげていたという噂であった。ところがアルヴィング夫人はマンデルス師に、夫の放蕩は仲直りのあとも全くなおっておらず、それどころか女中ヨハンナに私生児レギーネを生ませていたと打ち明ける。ヨハンナは金をもらってこれまた飲んだくれの大工のエングストランと結婚し、レギーネを表向きは正式な結婚から生まれた子どもとして育てていた。ヨハンナの死後にアルヴィング夫人はレギーネを引き取って家政婦として雇っていた。ところが落成式のためにパリから帰ってきたアルヴィング夫妻の息子、オスヴァルは異母妹であるレギーネにそれと知らずに結婚を申し込んでしまう。孤児院は火事になって全てが灰になり、アルヴィング夫人は真実をレギーネとオスヴァルに打ち明ける。レギーネは怒って出て行ってしまい、オスヴァルは父から受け継いだ先天梅毒で狂気に陥る。正気を失う直前にオスヴァルは母に自分をモルヒネで殺すよう頼むが、アルヴィング夫人は息子を安楽死させるかどうか決めかねている。ここで幕。

 この戯曲、全体的には面白いし、とくに前半は因習や偏見が個人の自由を破壊していく様子を焦点にしていてすごくよくできていると思う。こういう因習や偏見は劇中で「幽霊」と呼ばれているが、もともとのデンマーク語のタイトルGengangereは「戻ってくる者」つまりフランス語なんかでいうところのrevenantだそうで、この演出では因習や偏見などがあたかも「死んだはずの夫が戻ってくる」ような調子で描かれていた。

 しかしながら、後半部分になるとちょっと妙に戯曲が古いような気がしてきた。というのも、後半部分の梅毒の描写が大変19世紀的で、かなり当時の風俗に寄り添っているぶん古くなっているように感じたからである。現代ではHIVがあれだけ広がって、さらに母子感染なんかを止める手法も知られるようになっているので、性病=堕落の証、子孫に遺伝する大病、っていうイメージは大時代で、ちょっと差別的にすら見えてくる。さらにオスヴァルが「頭がおかしくなったら自分を殺せ」と母に迫るのも「現代だとこれはちょっと無理な筋書きだろうな」と思えてくる(『ミリオンダラー・ベイビー』はこれと似たことをやってかなり批判をくらったわけだが)。三百年前の芝居とかなら「昔の話だから」ですむのだが、イプセンだと比較的時代が近くてしかも当時の作品としても感覚がかなりモダンで客としても油断して見てしまうところがあるので、同時代の医学にのっとって書いた箇所ほど昔風に浮いてる、みたいな現象が起こってると思う。とくにオスヴァルの病気を知ったレギーネの反応なんかが21世紀でもそのまんま通用しそうなくらいリアルなので、このあたりの19世紀的要素がとくに目立っているのかな。まあ、もう二百年ばかりたてば気にならなくなるんだと思うし、劇的強度という点ではそんなに影響を与えるものではないと思うのだが、いまだに『人形の家』や『ヘッダ・ガブラー』がすごくアクチュアルな話であるのに比べるとやや古いかもしれない。

 まあ、そう考えると、性感染症についてフランクに話して感染も防げる今ならオスヴァルの苦痛は防げたかもしれないわけであって、そうなると医学の発展でクズ夫の来臨も阻止できるのかもしれない、とも思うわけだが、さてさてどうだか。医術の発展は我々を幽霊から解放してくれるんだろうか、それとも新しい幽霊を作り出しているのかね?

 演出は気が利いており、北欧ふうの長椅子を配置したシンプルでオシャレなセットもいかにもリッチだけど空虚な家庭の中心という感じで良い。役者の演技は皆クセがあるので好き嫌いが分かれそうだが、上手いことは上手い。例えばアルヴィング夫人はすごく上手だが最後はテンション高すぎで、それに対して忍成修吾のダウナーっぷりがまた逆方向に触れているのでこのあたり嫌いという人もいると思うが、私はそれほど気にならなかった。しかし一番面白かったのはレギーネ役の松岡茉優で、この人は『あまちゃん』と『桐島』に出てたらしいんだが、すごく落ち着いててとくにポストトークでの大物ぶりがすごかった。阿藤快と親子役なのだが、「孤児院を燃やしたのはエングストランですよ!ダメ父なんだから皆さん、感想で『本当はエングストランはレギーネのことを大事にしていると思う』とか書かないでくださいね!」とか、実にシビアで適切な役の理解ぶりを語っていて、これはすごいしっかりした女優さんだ!といっきにファンになりそうになった。舞台初出演ということでこれからどんどんよくなりそうだと思うので、古典的な風習喜劇とかに出てくる態度がでかい女相続人の役とかやってほしい。


 ↓なんか上でもリンクしたこの映画、テーマもタイトルもちょっと『幽霊』に似てる気がするんだが、アルモドバルってこの映画を作る前にイプセン読んだりしたんですかね?