「自然観」の何とも言えないうさんくささ〜田中ひかる『生理用品の社会史−タブーから一大ビジネスへ』

 田中ひかる『生理用品の社会史−タブーから一大ビジネスへ』(ミネルヴァ書房、2013)を読んだ。

 最初の二章はナプキンが登場する前の脱脂綿とか月経小屋の時代の経血処理について、第三章はアンネナプキン登場以降の動向、第四章は布ナプキンなどを含めた現在の生理用品に関する分析である。

 最初の二章ぶんを読むと、ナプキンが登場するまでの経血処理が非常に面倒なものだったことがわかり、この前提があるため、第三章で登場するアンネナプキンが女性を手間から解放した革新的なものであったことがよりいっそう明確になっている。手間ばかりでなく、不浄であるといったような迷信の除去にも近代的なナプキンの生産・販売は大きな役割を担っていたようだ。一方でアンネ社の社長だった坂井泰子が、「女傑」タイプとは違った「若くて美人の女社長」としてメディアにもてはやされたという60年代の商工業界のジェンダーバイアスについても言及があり、このあたりは今でも続いている問題だと思うので大変興味深かった。

 最終章で扱われている布ナプキンの話題は最近ホットなトピックだと思うのだが、けっこう厳しい批判がなされていてここは我が意を得たりという感じだった。神秘的な意味づけを行わない、デザイン性の高いかわいい布ナプキンの販売事業や、フランスで行われていた洗濯代行業など、取り組みとして非常に興味深いものも紹介されているのだが、一方で「これはちょっと…」と思うような取り組みも紹介されている。紙ナプキンはゴミが増える、かぶれが起こる、デザインがかわいくない、とかいうような理由で布ナプキンをすすめるのはともかく、私自身は「女性の身体回復!」みたいな理由で布ナプキンを広めようとしている動きにはかなり批判的である。で、この本で引用されている布ナプキン「布教」論は読んでいてけっこう薄気味悪いとすら思えてくるようなものが多かった。例えば、本書pp. 207-210に引用されている横瀬利枝子「生理用品の受容とその意義」『早稲田大学人間科学学術院』22(2009):31-45にはこんなことが書いてある。

「汚物」として扱われた使用済みナプキンが、「洗濯物」に変わることによって、女性は、生理自体をよりポジティブに捉えられるようになり、生理に内在する、身体観・自然観・生命観を取り戻し、さらに自分白身を解放して行くと考えられる。(中略)また、女性が、社会進出を果たす上で、生理用品の身体に及ぼす影響よりも、利便性を求め、安全性を追求しないならば、女性の意識からは、自らの生理を通して得られる、身体、自然、さらには生命と交流しているという、かけがえのない感覚も薄らぎ、経血の本来持つ意義をも忘れ去られるであろう。さらに、この感覚の消失は、健康美よりも痩身をよしとする、無謀なダイエットなどに代表される、道具的身体観を生み出し、愛・性・生殖の分断という、新たな問題にも少なからず影響を与えると考えられる。 (p. 43)

 これ(なんかちょっと文章じたいが読みにくくわかりづらいのだが)に対して、本書著者である田中は「生理に内在する身体感・自然観・生命観」や「経血の本来持つ意義」が何を指すのか全く不明であること、また「愛・性・生殖」をそもそも一つながりと見なすじたいがおかしいだろうということなどをあげて批判しており、この批判については私は完全に同意する(p. 210)。別に生殖のために恋愛や性交渉をするわけではないというのは避妊ピルの開発やゲイライツ運動の始まり以降、フェミニズムクィア系の学問及び運動で繰り返し議論されているテーマだろうし、そういうことをすっ飛ばして突然「愛・性・生殖の分断」を問題視するのは何がなんだかよくわからない。またまた、私の考えでは生理というのは排泄や汗をかくのと同じでたいして珍しくもない身体の現象だと思うし、経血も尿や便や汗や垢と同じで人体から出てくるただのいらないもの(+場合によっては感染を引き起こす廃棄物)だろうと思うのだが、芸術的な象徴のレベルではなく日常生活のレベルでそれになんかの意義を与えるというのは実に不可思議で、フィクションと現実を混同しているような行為に見える。私がはじめて学会誌に投稿した論文は小説における月経表現に関するものなのだが、私は文学・演劇の研究者としてフィクションや芸術作品における月経の神秘化表現を日常生活に持ち込むようなことにはすごく警戒しているぞ…しかし、田中が次々出してくる布ナプキン推進派の議論を見ていると、なんか普段フィクション研究よりは実地調査っぽいことをしている研究者ほど、生理に神秘的な意味を与えて喜んでいるような感じがして、なんともいえない「実地調査の罠」みたいなものを感じてしまった。

関連:「「アンネの日」に込められた情熱。「生理」を解放せよ!」←同じ著者の前作が出てくる。