ウォン・カーウァイかペドロ・アルモドバルがアメリカで童貞映画を撮ったら〜『ムーンライト』(ネタバレあり)

 バリー・ジェンキンス監督『ムーンライト』を見てきた。

 主人公であるアフリカ系アメリカ人でゲイである若者シャイロン(大人になってからはトレヴァンテ・ローズ)が子どもから大人になるまでを三部に分けて描いた作品で、それぞれの章にはその時のシャイロンの呼び名がタイトルとしてつけられている。子ども自体はあだ名のリトル、少年時代は本名シャイロン、大人になってからはドラッグディーラーとしてのあだ名ブラックがタイトルである。子どもの時は身体的特徴に根ざしたリトル(ちび)、少年時代には親から与えられた名前シャイロン、大人になってからは自分が選んだ、というかシャイロンが思いを寄せていたケヴィンが高校時代につけたあだ名ブラックが各章を象徴するということで、シャイロンのアイデンティティの変化が章タイトルに反映されている。

 とにかく、明白にウォン・カーウァイの影響下にある作品である。台詞が少なく映像で心理描写を行うところといい、雑然とした空間をスタイリッシュに撮るところといい、クセのある音楽の使い方といい、表現方法がウォン・カーウァイにそっくりだ。話の展開も『ブエノスアイレス』から根無し草となってアイデンティティの問題に直面しているゲイの恋人たちというテーマを、『花様年華』からは永続的な性関係に発展せず終わってしまったが強く残る愛の再訪というテーマを頂いてきている。一方で過去を訪ねるというモチーフや滑らかな語り口はペドロ・アルモドバル(とくに『オール・アバウト・マイ・マザー』以降)を思わせるところがある。シャイロンが車を運転する場面でかかっている曲「ククルクク・パロマ」は『ブエノスアイレス』でもアルモドバルの『トーク・トゥ・ハ−』でも使用されており、たぶんバリー・ジェンキンスをはじめとするこの映画のクリエイティヴチームはずいぶんと自分が受けた影響について素直である。

 しかしながら、こういう作家性が強烈な監督たちの映画に強い影響を受けてはいるものの、あんまりクセがなく、すっきり美しいのがこの映画がアカデミー賞なんかで受けた理由のひとつなのかな…と思う。人種差別、同性愛差別、階級問題、麻薬問題など、深刻で扱い方によってはスキャンダラスになりそうな主題をたくさん扱っているのだが、驚くほど正攻法であたたかみのあるよくできた人間ドラマになっている。第一章では主人公シャイロンを助けてくれる父親的存在であり、一方でシャイロンが直面している苦労の元凶の一端でもあるという複雑なキャラクター、麻薬売人フアン(マハーシャラ・アリ)が大きな役割を果たすのだが、このあたりは大人と子どもの関わりを描いたドラマとしてとてもよくできていると思った(ただ、ベクデル・テストはパスしない)。カーウァイやアルモドバルと比べると色の使い方が抑制的で、光と陰の描写に柔らかさがあるので、たぶん視覚的に趣味にあわないという人はそんなにいないのではという気がする。カーウァイのキザっぽい雰囲気作りも、アルモドバルのエグい奇抜さもこの映画からはあまり感じられないので、この2人の映画が嫌いだという人でもすんなり見ることができそうだ(私はカーウァイのキザっぽさやアルモドバルのエグさが好きだが)。最初、やたら不安定なカメラワークで、この調子でとり続けられたらけっこうキツいかもと思ったのだが、大人になるとどんどん構図も動きも安定感のあるものになっていって、そういうところもわかりやすい。

 カーウァイとかアルモドバルに見られないこの映画の面白さとして、これがアメリカの青春映画で、かつ童貞映画(←私が密かに使っているジャンル名)だということがあると思う。第一章「リトル」はフッド映画っぽい感じがする。第二章「シャイロン」はまるっきりアメリカの高校映画で、アメリカの高校における悪しき「男っぽさ」の発露と、それにうまくはまることができずいじめられる子、それにはまりたくはないが生き抜くために同調せざるを得ない子を描いた物語になっている。

 第三章は大人の愛の物語になるのだが、ここで面白いのは、ドラッグの売人として成功し、リッチで見たところは伝統的な「男っぽさ」の鑑のように変身したシャイロンが、高校生の時一度だけ性的に接触したケヴィン(アンドレ・ホーランド)に対して「あれ以来誰も自分に触れていない」と告白するところである。高校生の時、この2人は海辺でちょっといちゃついただけでお互いの裸すらちゃんと見ておらず、その後は周囲の圧力で悲劇的な事件が発生したので、お互いに満足できる継続的な性関係を結ぶことは全くできなかった。ケヴィンはハンサムでバイセクシュアルらしいので高校時代から女の子にもけっこうモテており、別れた恋人サマンサとの間には子どももいて可愛がっているのだが、一方で引っ込み思案でシャイな少年からいかにも女性にモテそうな若者に変身したシャイロンは見かけとはうらはらに女性とも男性とも一切付き合わずに生きてきた。はっきりとは描かれていないのだが、おそらくこれは今まで差別を受けてきた経験からして、ゲイであることを表に出すと伝統的な男らしさがものを言う麻薬売買の世界で生きづらくなるというシャイロンの社会的な不安と、ケヴィンに対する強い恋心が忘れられないという内面的な感情の両方に起因するのではないかと考えられる。この社会的な規範とただ1人かつて愛した人への恋心によって肉体的にも精神的にも貞操を守らざるを得なくなってしまうというシャイロンのキャラクターは複雑であり、ピュアであり、かつクィアだと思う。暴力や犯罪にまみれた悪しき男らしさが支配する世界で、そこから自分の心の最奥部の純粋さと、ゲイ男性としてのアイデンティティを守るためにシャイロンがとった手段が、ある種の童貞を守り続けるということだったんじゃないだろうか。ゲイであるために童貞でいなければならないといけないという逆説的な選択がここにあると思う。童貞を守り続けたシャイロンが最後、ケヴィンの腕で休むという終わり方からして、この映画は最強の童貞映画だったと思う。