ことばは道具か、生き甲斐か〜『マダム・イン・ニューヨーク』(ネタバレあり)

 『マダム・イン・ニューヨーク』を見てきた。

 ヒロインはインドで母親業のかたわらお菓子のラドゥを仕出しする小規模なケータリング業をしているシャシ。ミドルクラスで仕事が忙しい夫サティシュや、英語を学んでいる上の娘サプナは、英語ができない母を軽んじており、サティシュはシャシに菓子屋をやめろとまで言う始末。ところがニューヨークに住んでいるシャシの姪ミーラが結婚することになり、シャシの姉であるマヌはインド式の結婚式準備のためシャシを早めにニューヨークに呼んで手伝ってもらうことにする。ニューヨークで全く英語ができずに現地の人々にバカにされるつらい体験をしたシャシは4週間で英語を習う特訓コースに秘密で通うことにする。英語を覚え、またいろいろな考え方に触れてどんどん新しい体験をし、自信をつけていくシャシ。さらには同じクラスに出席しているフランス人のシェフ、ローランが同じ料理人であるシャシに惚れてしまい、あわや不倫という事態に…さらに英語の最終試験と結婚式の日取りがかぶってしまったり、家族が一足はやくニューヨークに来たり、トラブルの予感が…というお話。

 とにかくヒロインのシャシに魅力がある。ヒロイン役のシュリデヴィは50歳近いヴェテランなのにまるで少女のような天真爛漫さだが、一方で最後に「恋よりも尊重されたい」と言って、夫から平等な人間としての尊敬を勝ち得た後で家庭に戻っていく様子は実に大人の女性らしい選択と言える。こういう、初めて外国に行って教育を受けるという新しい体験にワクワクする乙女と、母で妻でヴェテランの菓子職人だが自信の喪失に悩んでいるという非常にオトナな悩みが同居する役どころはなかなか大変だと思うのだが、実に生き生きしていて見ているだけで楽しい。

 この映画はインドの女性が置かれた状況とかいろいろな面から楽しめる映画だとは思うのだが、「ことばはツールか、生き甲斐か」という、外国語を教えたり海外で暮らしたりしたことのある人にはかなり切迫感のあるテーマを扱った作品でもあると思う。シャシは「英語ができないからバカにされたくない」「ニューヨークで英語が話せないと生きていくのもつらい」ということで必要に迫られて英語を学び始めるのだが、これによりどんどん新しい知識を得、自分のことを人前で表現する力も伸びて自己を解放していく。外国語を教える時に「意思疎通だけできればいい、ただの技術だ」という考え方と「言語はそれをとりまく文化や自己表現の手法などを含めた全人格の教育である」という考え方があると思うのだが、シャシは最初はおそらく「ツールとしての言語」を学ぼうとして、最後は「解放の手段としての言語」に至るという過程を経ている。ここで面白いのは、おそらくシャシが英語を通して学んだのは英語圏であるアメリカの文化だけではなく、英語がないと話すことができなかったフランスやらメキシコやらパキスタンやら韓国やら、クラスメイトたちの国の文化でもあり、そうした多くの文化を一度に知ることによって自由とか平等とは何かということを知ることができた、ということである。これは英語帝国主義をほのめかしている一方で、英語圏だけではないいろいろな文化を知ることが重要で、そのためには英語でもなんでも使うべきなのだ、ということも暗示していると思う。

 一方でアメリカ側の登場人物もけっこう興味深い。シャシの英語の先生であるデイヴィッドは見るからにゲイな感じでやはりゲイなのだが、この先生の前で無口なアフリカ系のウドゥムブケがやはりゲイです!とカムアウトしたり、またまたいくぶん保守的だった生徒たちがシャシの発言をきっかけにデイヴィッドのセクシュアリティについて考え直すようになったり、セクシュアリティについての差異を文化的な差異とか言語の差異といった、より自分にわかりやすいものに置き換えて考え直すことではねのけていこう、というようなメッセージがあると思う。あと、ミーラの夫でいかにも白人のアメリカ一家の息子、という感じであるケヴィンがインド式の結婚式で花婿になりたがるというところも面白い。これはケヴィンがアメリカの宗教文化に飽き足らないインテリだ、っていうことなのかもしれないが…