鍛えられた役者の演技と綿密な時代考証でターナーの世界を再現〜『ターナー、光に愛を求めて』

 マイク・リー監督の新作『ターナー、光に愛を求めて』を見てきた。

 J・M・W・ターナーの後半生を描いた伝記映画で、マイク・リーはこの映画を作るためにすごいリサーチをしたらしいのだが、一方でリーの監督スタイルというのは完全な台本を作らず即興演出を行うことなので、この映画もスクリプトを作らず役者のアドリブでいろいろ作りあげていったところがあるらしい。鍛えられた役者の演技と綿密な時代考証で、ターナーの絵そのまんまの情景がスクリーンに出現するあたりは圧巻なので、タイトルで愛と感動のヘチマかと思ってしまう人も敬遠せず是非いってみてほしいと思う。

 この映画の勝因は、偉大な芸術家の伝記映画なのに、ターナーをはじめとして出てくる人物がみんなさえないおじちゃんおばちゃんであり(全然美化されていない)、かつ全く枯れた感じが無いことだと思う。さらに所謂イギリスお得意の「ヘリテージもの」の映画なのに、ポッシュな感じが一切なく、とことん庶民の暮らしに焦点を当てていて、悪く言えば貧乏くさく、よく言えばすごくリアルである。ターナー役のティモシー・スポールは、言い方は悪いが一見、子ブタがそのままおじさんになったみたいな見かけと声(うなり声がなんか「ぶぶーっ」という感じ)なのだが、なんとも言えないエネルギーと愛嬌があり、偉大な芸術家らしさと庶民のおっちゃんらしさ、心の優しさと芸術家にありがちなしょうもねえ無責任男ぶりが違和感なく同居している。この映画のターナーはとにかく性的に問題を抱えまくった男で、才能溢れる芸術家なのでたいへんモテる(容姿がパッとしなくてもこんだけ絵が描ければまあモテるのは当たり前だ)。モテるだけなら別に問題は起こらないのだが、寝た相手に心遣いをするとかそういうことがほとんどできず、最初の内縁の妻サラとの間の娘二人には金銭的支援をしてなくてサラになじられまくりだし、お手伝いのハンナ(ドロシー・アトキンソン)を愛人にしているのだがたまにセックスするだけで冷たい態度をとるばかりだ。このあたりの性的な無責任さをこの映画は容赦なく描いていて、芸術家としてのターナーを美化していない。ターナーを庶民出身の画家としてポッシュな道徳、文化と対置して描きつつも、さらにその奥に潜む微細な階級やジェンダーの問題をうやむやにせず、庶民的なターナーがさらに階級が下の者や女性に対しては強権的に振る舞いうることを問題化していて面白いと思う。
 とくにハンナとターナーの関係は非常に切実かつ問題があるものとして描かれていて、関係性の表現も非常に巧みだ。ターナーは映画冒頭でオランダに出張してて帰宅するところから始まるのだが、そこで帰宅した瞬間からなんかハンナとターナーの距離感がすごくおかしくて「これは普通の主人と女中の関係じゃないな」とわかるようになっており、演技だけでこの「男女の関係」感を醸し出しているところは凄い。ターナーはハンナをたまにセックスできて頼れる使用人としか考えていないのにハンナは純粋にターナーを愛しているというすごい階級的・性的不均衡があり、報われない愛を主人に注ぐハンナは気の毒この上ない。ターナーは最後の最後に心から理解しあえる寡婦ブース夫人(マリオン・ベイリー)と一緒に暮らすようになり、ブース夫人との関係ではきちんと責任をとって大人らしく振る舞おうとするのだが、そのせいでハンナは捨てられることになるので非常に人生の不公平を感じる展開でもある。最後、ターナーの死後の場面ではハンナがすごくラファエル前派的な構図に入るのだが、映画全体でターナーの後にラファエル前派が興隆したという描き方になっているところを考えるとこの終わり方は興味深い。ラファエル前派は障害とか病の描写を得意とするのだが、この場面のハンナは疥癬で苦しんでいる、病の女という設定である。ターナーが死んだ後、純粋で病と遂げられない恋に苦しんでいる女性がラファエル前派的構図に入るというのは、イギリスにおける画風の変遷と一時代の終わりを非常に凝ったやり方で表現していると思う。
 もうひとつ面白いのは、この映画では若く美しい人々はなんか性的に歓びがない状態に置かれている一方、年取っていてぱっとしない風采の人々は性的に快楽を得ているというところである。若い頃のラスキンが出てきているのだが、このラスキンはすげーいやなヤツで、有り余る金と教養と才能を持った童貞という感じで描かれている。ラスキンが童貞だというのは別に悪口とかではなく歴史的事実とプロットに関わるところで、ターナーがパーティの席で隣になったとても美しいラスキン夫人エフィに「そのうち愛が来ますよ」と言うのは、ラスキン夫妻に性的関係がなく、エフィはラスキンと別れてミレイと再婚した史実を意識している。つまり、若くて美しいラスキンとエフィは性的に歓びがない人々として描かれている。一方、ターナーはおっさんで風采もぱっとしないし、またまたターナーの愛人となる女性たちも中年以上の年で容姿もそんなにぱっとしない人たちなのだが(ターナーは見た目の美に全然こだわらないで別のところに親密性を求める人として描かれている)、みんな性的に活動的だ。この映画は「年取ってからこそ性生活がある」っていう話なのかもしれない…

追記:この映画はベクデル・テストはパスしない。ハンナやブース夫人はもちろん、メアリ・サマヴィルとかいろいろきちんとした女性キャラが出てくるし、女性だけで話す場面もあるのだが、だいたいはターナーのことなのである。