科学者の見る小さな世界と科学の大きな影響~『オッペンハイマー』(試写、ネタバレあり)

 クリストファー・ノーラン監督の新作『オッペンハイマー』を見てきた。

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 物理学者で原爆開発の立役者のひとりであるJ・ロバート・オッペンハイマーキリアン・マーフィ)の伝記映画だが、全人生はカバーしていない。オッペンハイマーが若手研究者として頭角を現し始めたくらいから始まり、ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)が商務長官就任を却下されるところまでで終わる。この終わりはいったいオッペンハイマーの人生にどういう関係が…と思うかもしれないのだが、実際に見ると極めてきれいに着地している(ここも面白いのだが、あんまりネタバレすると良くないのでこのレビューでは割愛する)。

 まず、序盤でけっこういやな気持ちになることを覚悟したほうがいい…というか、オッペンハイマーがロスアラモスにマンハッタン計画のための科学者村を作り、原爆の実験を成功させるまでが、まるでむちゃくちゃよくできたプロジェクトXみたいな感じで、非常にわくわくする開発ともの作りのプロセスとして描かれている。このわくわくプロセスが原爆開発なのだから、見ているほうは複雑だ。ただ、この楽しい開発描写が終盤反転するというのがこの3時間の大作の構成で、一筋縄ではいかない作りになっている。

 序盤はまずロスアラモスで働く研究者集めがひとつめの山である。オッペンハイマーはかなり通常のソーシャルスキルが低い典型的学者タイプなのだが、それでもここまでに培った研究者ネットワークがあり、たくさん優秀な科学者がオッペンハイマーの話に興味を持って集まってくる。これは科学に限らず研究の世界ではだいたいそうだと思うのだが、研究者のソーシャルスキルというのはどれだけ研究ができるか、そして自分の研究のことを他人にうまく説明できるかに左右されるので、たぶん政治家とか企業家とかのソーシャルスキルとは全く違うからである。オッペンハイマーはこの研究能力、研究プレゼン能力、また研究チームのロジスティックスを管理する能力は非常に高いので、科学者がみんなオッペンハイマーを信用して集まってくるわけである(なお、オッペンハイマーは研究コミュニティから出て政治家なんかに会うと途端に交渉下手になる)。

 この七人の侍的リクルーティングプロセスの後でロスアラモスに科学者村ができるのだが、この村はオッペンハイマーを村長として運営される科学者だけの隔絶されたコミュニティである。もちろんアメリカ軍から官僚的な横やりが入ってきてそれに科学者がイラついたりはするのだが、軍人がいないところでは科学者たちが自分の思うとおりに研究をしており、平時の日常ではあり得ないようなある種の人工的な科学のワンダーランドのように描かれている。オッペンハイマーをはじめとするユダヤ系や左派の科学者たちは当然ヒトラーを嫌っているので、新しい科学でナチスと戦うんだという固い意志を持っているし、全員すごく優秀だ。中には原爆の破壊力と影響力について不安を訴え、仕事やめたいと言い始める科学者もいたりして不穏な気配はあるし、終盤でナチスが負けてからは科学者の間でも原爆は使うべきではないというような意見を述べる人が増えてくるのだが、それでも最初の核実験であるトリニティ実験までは、見ている人を強制的に開発プロセスに巻き込むみたいな熱気があり、映画としてはすごく面白いと思って見ながらも、これが日本に落ちるのか…と思うと大変イヤな気持ちになるし、こんなんを楽しく見ていいのか…という気になってくる。

 しかしながらこのわくわくする開発が終盤で全く違うものに見えてくる。原爆投下の後、オッペンハイマーは良心の呵責にかられて悲惨な想像に苛まれるようになる。実際に原爆が広島や長崎に投下された時やその後のことが映像で示されることはないのだが、科学者たちが記録映像を見てショックを受けたり、オッペンハイマーが原爆の父としての名声に居心地悪さを感じるようになったりする様子を通して間接的に核の恐怖が描かれる。オッペンハイマーにとっては、ロスアラモスでやっていたワクワク開発プロセスが人類に取り返しのつかない惨禍をもたらしてしまったということになり、あの充実していたはずの研究の経験は何だったのか…ということになるわけである。これはほぼ観客も同じようなプロセスを体験することになり、開発プロセスを面白いと思って見ていたのが非常に居心地悪くなるような作りになっている。

 

 そこで問題なのは日本が受けた被害に関する描写が極めて間接的であることだ。スパイク・リーはこの映画を褒めつつ日本の被害描写がないことを軽く批判している。スパイク・リー自身が、途中まで良い意図で頑張ってやったのにどうもすっきりしない終わり方になってしまった…みたいな展開を得意としている監督だと思うので、この意見は大変リーらしいと思うし、この意見は正しいと思う…のだが、一方で直接描写がないことにはおそらく美的な一貫性という点で理由はある。というのも、この映画のオッペンハイマーは非常に小さな世界に生きている人間であり、本作はオッペンハイマーの心の中で起こっていることとその限界に関する物語だからだ。

 この映画のオッペンハイマーは、視野の狭い人ではまったくない。若い頃から組合活動や左翼思想などにも興味があったが、あまり党派的な活動には馴染めないタイプだ。いろいろな外国語を学び、サンスクリットの文学を原語でたしなむ教養人だし、若い頃は大陸ヨーロッパ各地で留学もしている。しかしながらオッペンハイマーはこういうところで得た知見を全て自分の手が届く小さい世界に引きつけて考えてしまうようなところがある。おそらくオッペンハイマーが最初は原爆開発に尽力し、原爆使用後に良心の呵責を感じるようになったのは、少なくとも映画ではこの性格に関係している。オッペンハイマーが見ているのはそれこそ原子みたいな小さいもの同士が動いている世界と、星が広がる大きな宇宙で、その中間のいろんな人間がかかわりあう不確定な社会のようなものに対するヴィジョンがあまりない。このせいでやたらと女性関係でトラブルを起こすし、政治活動へのかかわり方も大変に不器用である。

 そういう意味では、ロスアラモスはオッペンハイマーの精神世界の象徴だ。巨大な荒野が広がる自然の世界だが、オッペンハイマーにとっては弟と一緒に買った牧場がそばにあり、実家みたいなところである。そこにほとんどゼロから周辺と隔絶された科学のワンダーランドを作る。ここでオッペンハイマーは広大な宇宙を自分の家に引き寄せて、そこに人工的な自分の小宇宙を作るというような行動をとっていると思う。

 この小宇宙は居心地の良いところだったが、オッペンハイマーは結局、この守られた小宇宙から出て社会とかかわらざるを得なくなる(これはある意味で、バービーランドから現実世界に主人公たちが出て行く『バービー』と似ていると言える)。オッペンハイマーは原爆投下以降、ロスアラモスの周りの人が閃光のもとで焼けただれていくような幻影に悩まされるようになるのだが、たぶん日本の惨状を想像するのではなく、目の前の人たちが出てくる夢を見るのがポイントで、オッペンハイマーは社会で起こっていることを自分の至近に引きつけて想像しないとあまり把握できない。これがオッペンハイマーの想像力の限界なのである。オッペンハイマーが作った小さな世界はコントロールの効いた整った空間のように見えたが、一歩そこを出ると、そこで作られた科学の成果が想像もできないような大きな影響を社会に及ぼしており、オッペンハイマーはそれを正確な形で予見することができなかったし、影響が出た後も自分に引きつけて考えないとうまく理解できない。そしてオッペンハイマーはこうした白昼夢の後、ロスアラモスを離れざるを得なくなるわけだが、外の世界はそんなにオッペンハイマーに優しくなかった。

 

 そういう意味ではこの映画の描写には非常に一貫性はある。ただ、映画として一貫性はあるとは言え、これを広島や長崎にお住まいの方や、親戚に被爆で苦しんだ方がいるような観客が見た場合はもう中盤まででイヤな気持ちになるかもしれないし、後半もぬるいと思う可能性はあると思う。たぶんスパイク・リーは美的な一貫性を犠牲にしてでも日本の被害を見せたほうがよかったと思っているのはないかと思うし、私もそうかもという気はする。

 なお、この映画は技術的には大変高度なことをやっている映画である。全体的に音が非常に工夫されており、場面にあるはずの音をなくしてオッペンハイマーが感じていることを強調するなど、音の表現が巧みだ。不穏な音楽や、トリニティ実験で音だけ遅れて聞こえてくるくだりなども大変よい。また、メイクがけっこうすごく、老けメイクをはじめとする同じ役者で違う年齢の姿を表現する際の工夫はもちろん、「徹夜明けの研究者」の顔の再現度がえらいリアルである。しかも人によって全く寝てなそうな奴(組み立てとか準備の部門の人はたぶん休まず作業してた)と多少は寝てそうな奴(オッペンハイマーなど理論部門は、疲れてはいるが大事な実験にそなえて細切れでも休養をとってそうな顔をしている)の間に微妙に顔色の違いがあり、役者の演技を非常によく引き立てているメイクだと思った。